能楽鑑賞などなどの記録。  
村上春樹 「騎士団長殺し」

 

たしかにそれほど上等な比喩ではない。だいいち暗喩ですらなかった。
「それは暗喩じゃなくて、明喩だよ」と私は指摘した。
「すみません。言い直します」と顔ながは額に汗を浮かべなから言った。「彼はあたかも、通勤の人混みの中でオレンジ色のとんがり帽子をかぶるように生きた」
「それじゃ文章の意味が通じない。それにまだきちんとした暗喩になっていない。おまえがメタファーだなんて、どうも信用できないな。殺すしかない」
顔ながの唇は恐怖のためにぶるぶると震えていた。

 

(本文より)


2017年に出版された本です。

 

・・・言うまでもなく・・。

 

全体として、村上版「インサイド・ヘッド」(ピクサーのアニメ映画)みたいというか、「ハルキ、創作のひみつ」みたいな内容で、メタフィクション的と言うとカッコいいけど(?)、あまり面白くなかったな〜。。というのが、正直な感想です。

 

主人公は例によって、パートナーとの理不尽な別れだとかの定番の「消失」が原因となって、ぽっかりと現実に空いた穴に落っこちる。そして、ほとんど無意識下と言っていい世界で冒険活劇を繰り広げ、地上へと生還する。

 

主人公にはこれまで以上に、著者自身の面影があったように思われるし、画家という職業にも、特に商業的な肖像画を専門としていたことにも、ある種の自虐というか、自身の作風に対するエクスキューズも感じさせた。

 

(ただ、売れない画家という設定のわりに、自身の能力と腕前に対する自負心は、ミョ〜に高い・・。そういうものだろうけど。そして著者の実際の暮らしぶりは、主人公よりもむしろ、お金持ちだけれどメイドは使わない「免色さん」に近いんじゃないだろうか。白亜の豪邸に住み、英国車を4台持っている・・)

 

確かにピカソのようなタイプでもない限り、一度完成した画風を極端に変える・・・という画家は少ない、と思う。そして多くの絵画作品では、本来は目に見えない「イデア」がメタファーとして仮の姿形をとって顕れる。

 

作中に「父親」というものが、あるいは血縁そのものが重要なファクターになっているというのも、「海辺のカフカ」のような例もあるけれど、村上作品には珍しいのカモしれない。

 

フロイト的な解釈を、著者は作中で布石を打って否定しているけれど、偉大な父親像や、我が子を目の前にして狼狽える父親、息子に呪いをかける父親、邪悪な父親・・・が主人公の中で顕れては消えていく。もっとも、エディプス的な要素も出てくるけれど、それはやはり要素の一つでしかない。

 

印象的なのは、主人公と疑似的な親子関係ともなる、親友の父親で偉大な日本画家という登場人物で(「雨田具彦」という)、主人公やその友人が30代半ばで、その父親が92歳という設定はいささか不自然だけれど、ハルキが一度書いておきたいと語っていた自身の父親像、なのだろうか。

 

そして避けては通れない、その世代の人物たちが背負っている負の遺産とでもいうべき過去が、この物語のメタファー的な原動力となっている。彼らは最後の最期まで、本当は何があったのかを語ろうとはしない。(それは個人が時代によって、すり潰されていくことの警告でもある。)

 

対して、現実あるいは明喩的には、「免色さん」の我が子(かもしれない)に対する執着が、空洞となった主人公を車輪にして物語を展開していく。

 

そういうところは、変わらず上手いな〜とも思うのだけど、クライマックスというべきところで、主人公の活劇の『比喩』が唐突に抽象画調となってしまい、あまりに前衛で(笑)、そこはちょっと残念だった(笑)。

 

過去の作品群は、無意識は無意識としてまだ機能していたように思うのだけど、もうそんなの面倒くさくなっちゃったのかしら・・?

 

これまでの自分の創作スタイルというか、本人も言うところの小説生産システムの『トリセツ』的な内容でもあり、自分自身の中に深い井戸を掘り、そこを下っていくと、物語の水脈にたどりつくのだ・・と。そういう意味では、やっぱり面白いことを書く人ではる。

 

なんとなく、雨田具彦の人物像ではなく、作風だけのイメージとしては、モデルは安田靫彦かなと思うのだけど、どうだろう??

 

 

 

posted by kuriko | 00:55 | 番外 | comments(0) | trackbacks(0) |
Tehepero

 

先日、なんだか思わせぶりなことを書いてしまいましたが、実は当分、どこの能楽堂にも行かない予定です。

 

いや、行こうかな・・・?

 

こちらのblogも、チョコチョコ更新していくつもり・・☆

 

てへぺろ的な?

 

 

 

 

 

posted by kuriko | 00:00 | 番外 | comments(0) | trackbacks(0) |
ミュシャ展

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ムハは、いかなる国の未来も、その国が歩んできた過去や歴史を知ることにかかっていることを確信していた。

 

(解説より)


もちろん、修正主義でなく、正しく客観的にね・・。

 

今日は六本木まで、アルフォンス・ミュシャ展を観に行ってきました〜。(http://www.mucha2017.jp/)
とっても素晴らしかったです!

 

「スラブ叙事詩」について、書籍などでなんとなく見知る機会があり、いつか実物大で観てみたいものだわ・・・と思っていたので、今回それが叶って非常に嬉しかったです。

 

会場は結構な混雑ぶりで、私はただ『おお、すごい』と感心して観ていたのだけど、後ろにいた女子大生ふうのコたちは、「すごーいっ、なにこれ、すごーいっ」と、やたら驚いていました。

 

ミュシャ自身もきっと、こうした反応こそが嬉しいに違いない・・(たぶん)。「スラブ叙事詩」において、ここまでのサイズとその展示にこだわったのは、絵に込められた魂と歴史に、自身の経験としてできる限り直に触れてほしい・・と願っていたから・・だと思う。

 

20点に及ぶ「スラブ叙事詩」では、天上(精神)世界と地上(現実)世界が同時に、上下に描かれていることが多いそうですが、それはちょうど観る者たちの視点にもつながる。

 

スラブ民族にも原初的には多神教の神がおり、別の神を持つ異民族から侵入を受け、キリスト教を受容するとヴァチカン(カトリック)からの支配と対立し、政治文化的にも、西欧の大国からの影響を常に免れず・・。

 

神々は天上にあり、(時代的な制限もあるにせよ)民族の自由と独立を求めた宗教的、政治的な、そして英雄としての指導者の姿も常に、少し離れた高みにある。

 

チェコ語ふうに発音すると、ミュシャは『ムハ』となるけれど、既に『ミュシャ』が定着しているせいか、受ける印象が随分と違う・・。アール・ヌーヴォーの寵児としてのミュシャと、彼自身の理想とアイデンティティの根本を追求したムハと・・・。

 

私が無知だったダケだけど、1つの頭に4つの顔を持っている古代の神・スヴァントヴィートの如く、画家としても巨人と言える人だったのだな、と、その認識をさらに改めたことでした。

 

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(※撮影可コーナーでした。これはギリシャ正教側の「アトス山」です。)

 

 

posted by kuriko | 23:17 | 番外 | comments(0) | trackbacks(0) |
Scrap and...

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今日、人と話していて、***するのを取り止めにした、と言うべきところを、何故か間違えて「取り潰しにした」と言ってしまい、「そうか、東京の街には今頃、浪人どもがあふれているね」と返されて、めっちゃ笑ったことでした。

 

毎日いろんなことがあるけれど、はぁ〜。。毎日が善き哉。。。☆

 

新しい能楽堂のこと、当事者でない人たちはこれから色々言うだろうけど、別にいいと思う。。

 

むしろ、銀座みたいな場所に作れたっていうのが意外だった。
作ったっていうより、テナントとして入ったっていうほうが正確なんだろうけど。。

 

だって、いまの能楽にいったいどれだけの体力が残っているだろうか?って気もするし・・。

 

みんなオリンピック利権になんとか乗っかろうとガンバったり、忙しいアピールだけはしてるけど、近い将来もし興業だけで食べていくことになったら、公演の形態も特殊だし、逆に流儀だのなんだの、人が多すぎる気さえする。少しでも体力が残っているうちに、やれることはやっておいたほうがイイ、と思う。

 

神社(パワースポット)ブームとか、刀剣ブームとか、瞬間風速的なものは今後突然起こるかも、、とは思うけど・・・。

 

 

posted by kuriko | 22:24 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
狂言ござる乃座 55th

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附子
シテ 野村裕基
アド 野村遼太
   野村太一郎

 

清水座頭
シテ 野村万作
アド 野村萬斎

 

弓矢太郎
シテ 野村萬斎
アド 石田幸雄
   月崎晴夫
   高野和憲
   竹山悠樹
   深田博治
   内藤連
   中村修一
   飯田豪
   岡聡史


※2017年3月30日(木) 国立能楽堂にて。

 

 

というわけで、萬斎さまの「ござる乃座」に行ってきました〜!
久々の本狂言の公演。とっても面白かったです!


附子。

 

裕基、遼太に比べると、主人役という役柄もあってか、太一郎は断然お兄さんで、完成度が全然違ってました。破られてしまった掛軸や、割られてしまった茶碗に目を遣る場面など非常にウマかったです。(←上から目線。)

 

すっかり狂言方らしくなった遼太(相変わらずおカオが小さい!)に比べると、一番年少の裕基が一番ヘタっぴだったけど(笑)、それでも安心して観ていられたのは、やっぱり厳しいお稽古の賜物でしょうか。

 

遼太、裕基、太一郎と並ぶと背丈のバランスも山型になるところもイイ。泉下の万蔵たち(複数)も、さぞかし・・と、ありがちな感想がつい漏れます(笑)。

 

清水座頭。

 

お能の番組立てが意識されているような今回のプログラムで、この一曲が本当に素晴らしく、ちょっと、かなり、感動してしまいました。。。万作も萬斎さまも、やっぱり特別というか、凄いというか、改めてこの二人の存在の大きさに気づかされるというか・・・。

 

それに、物語もしゃれた外国の(笑)恋愛映画みたいで、伏線張りや、ちょっとしたどんでん返しまであって楽しい。作者の非凡を感じました。この作者が現代アメリカにでも生まれていたら、ハリウッドかブロードウェイあたりでウデを振るっていたのではあるまいか。

 

舞台には、まず女性の美男鬘をつけた、女姿の萬斎さまが登場です。思い詰めたような、きゅっと固くうつむいた顔立ちが綺麗。クリーム色の控えめな文様の入った縫箔も、品があって御洒落です。

 

彼女は杖をついている「瞽女」なのだけど、本人の話すところによれば、最近になって病により失明したいわゆる中途失明者らしい。おかげで結婚も仕事(奉公)もままならない・・と、かなり苦労している様子です。この日は清水の観音様に、祈願したいことがあってやってきたとのこと。
(←この物語では、「瞽女」という名乗りに女性芸能者という意味は、あまり強くなさそうだった。後半で小歌を披露したりしてたけど。)

 

つづいて、同じく「座頭」である万作の登場。

 

そしてこれが何というか、万作の「座頭」としての演技、特に目の不自由な人の運行の再現というか、橋掛かりの出にはとにかく際立ったものがある。本当のことを言って、この登場シーンには観ていて鳥肌が立った。

 

こつこつと静かに杖をつき、片手で周囲を探るようにして橋掛りを進むのだけど、登場のその瞬間から、彼が暗闇の中にある、その運命を文字通り手さぐりで歩んでいるのが伝わってくる。シテ方やワキ方とはまた違う、リアリティとその緊張感。そして根底にある、異形の者としてガラリと辺りの空気を変える存在感。ほんとにすごかった・・・。

 

万作も同じように清水寺に参詣に来て、こちらの願い事はなんと、『申妻』(縁結び)とのこと。結婚して子供も欲しいんです・・みたいな。ところが、先に祈願していた瞽女(萬斎さま)とぶつかってしまい、萬斎さまが俄然、ブチギレと言っていいくらい非常に怒る。


「あなたも私をからかおうと言うのね!」みたいな台詞の彼女の怒り方、だけどどことなく気弱な、相手に対して強く主張しきることもできないその様子。萬斎さまもパンフレットの御挨拶に書いているのだけど、狂言らしい「わわしい女」とは全く違っていて、光を失ってからの様々な事に彼女が深く傷つき、自分のことを弱者と思っている、そんな気配が伝わってきて、こちらも素晴らしい。

 

やがて二人のやり取りから、お互いが盲目であることを知る・・・という、繊細な機微のある物語。

 

しかし万作のほうは、台詞から察するに生来の盲目であるらしく、萬斎さまに比べると大らかで余裕がある。お酒を持ってきてるので、一杯やりませんか?と、にこやかに話しかける。

 

この時、萬斎さまのほうは『ああ、また失敗してしまった・・・』と落ち込みながら、ぎゅっと全身を固くするように座っていて、女心の伝わってくる萬斎さまの女優ぶり。そして、万作から一杯だけお酒をもらうと、ちょっとほっとしたようなリラックスした雰囲気に変わります。

 

一曲謡いましょうと、万作は「平家」を披露し(ちょっと息が苦しそうでしたが)、萬斎さまは小歌「地主の桜」でのいいお声は変わらず。場面が急に華やいで、二人で楽しそうです。お互いに盲目の二人にとって、心と声の美しさは超大切、な筈。

 

二人とも観音様のお告げを授かろうと、やがて眠ってしまうのですが、萬斎さまのほうが先に目覚めて、観音様のお告げがあった!と、喜んで先に出て行ってしまいます。

 

続けて万作も目覚め、観音様のお告げで、妻となる人と出会おうと西門のほうへと向かう・・・。

 

二人は目が見えないので、見所のほうが二人はちゃんと再会できるのだろうか・・と、ドキドキしながら見守る。万作が橋掛かりに佇んでいる萬斎さまを、そうと知らずに探し当て、お互いの杖が当たって、カチリ、と音がする瞬間がなんともロマンチック・・・。

 

そう、瞽女の願いもまた、生涯の伴侶を得ることだったわけです。「もしかして、君も独身・・・?」みたいな台詞に続けて、一緒に謡いながら心を開き合っている様子も、微笑ましく、美しく、まさしく「室町のミュージカル」でした・・!

 

やがて万作が萬斎さまの手を引いて、二人で一本の杖で歩むのですが、このときすっかり小さくなった万作に寄り添うようにして、萬斎さまが背中を曲げて小さくなっていたところが可愛かった・・。本当に素晴らしかった一番でした。

 

弓矢太郎。

 

こちらはもう、萬斎さまのカワイイ節が炸裂した鉄板の舞台。本当は臆病なのに、雄々しい扮装で強がってみせる、なんとも狂言らしい人間の世界です。面白かった。

 

途中、萬斎さまが、ずらりと居並んだ万作家の若手(?)たちの名前を挙げて行くシーンがあったのですが、万作家の弟子たちも増えて、ここで萬斎さまが「えっと、おまえ誰だっけ・・」とか言ったら面白いな、とか思ってたのですが、そんなこともなかったです(笑)。

 

壮大な(?)仕掛けで始まるのだけど、エンディングが案外あっさりしているのも狂言らしいような。

 

非常に楽しく、行ってよかったと思える公演でした。

 

 

posted by kuriko | 11:57 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
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