能楽鑑賞などなどの記録。  
銕仙会定期公演5月

草子洗小町
シテ 浅見真州
ツレ 清水寛二
    泉雅一郎
    小早川泰輝
    鵜澤光
    観世淳夫
子方 谷本康介
ワキ 福王和幸
アイ  内藤連


大鼓 國川純
小鼓 曽和正博
笛    松田弘之


地頭 浅井文義


狂言
横座
シテ 石田幸雄
アド 野村万作
   石田淡朗


春日龍神
シテ   安藤貴康
ワキ   大日方寛
ワキツレ御厨誠吾
     野口能弘
アイ    飯田豪


大鼓 柿原光博
小鼓 鳥山直也
笛   栗林祐輔
太鼓 桜井均


地頭 柴田稔


※2019年5月10日(金) 宝生能楽堂にて。

 

 

というわけで、銕仙会定期公演に行ってきました〜!


今回、なかなか、彼らが意図し、あるいは意図せざるところでも示唆に富んだ舞台になっていて、非常に興味深い内容となっていた・・と思ったです。


で、まずは「草子洗小町」。


ベテランの真州らしく、非常に素晴らしく面白かった。それにしても改元ははじめから知っていたにしても、今月の公演に「草子洗小町」を持ってきちゃうとは、なんてタイムリーな番組。


万葉集、改竄といったキーワードもバッチリ(?)で、当代を言祝ぎつつ、で結局赦しちゃうというあたり、いろんな意味で(苦笑)現代的な内容だったかもしれません。


悪役の和幸(大伴黒主)は、宮中での歌合になんとか勝利しようと、対戦相手の小野小町の家に忍び込み、歌作を盗み聞きした挙句、万葉集を書き加えちゃうという無双ぶり(現代用語)。


観世流なので、舞台のほうから橋掛かりのほうに身体を傾けて、めちゃ分かりやすく盗み聞きする姿も大胆です。


和幸って端正な顔立ちのイケメンなのですが、こういう、やってることは実はセコイ、、みたいな役柄に逆にリアリティが出て可笑しい。


一方で、橋掛りに姿を現わして詠唱する小町の姿は、大変に美しく高雅な印象で、能楽の曲には珍しく絶世の美女としての小野小町の風姿が伝わってきます。(いつもは何故か、その美貌を失ってからの小町・・ばかりだもんね。)


さて、その翌日・・というわけで、歌合の場面となるのですが、華やかな宮中絵巻の趣で、帝(子方)を先頭に、を殿上人たちがずらずらずらーりと居並びます。


シテの小町も唐織を壺折にして大口を着ける衣装に改め、腹黒役の黒主は緑がかった暗い蝋色のような狩衣なのに対して、紀貫之は涼しげなペールブルーの狩衣です。貫之役のしみかんも、今回は歌道レジェンドにして貴公子の役柄に相応しくいつもより柔らかな息遣い。


早速ミカドの言葉によって、歌合は催され第一番に小町の作が詠まれると、帝もさすがは小町、とお褒めの言葉も出たのですが・・・。


ここで、ちょっと待ったぁ〜!!と、黒主が割って入り、彼の虚偽の申し立てによると、なんと小町の歌は、万葉集に載っている古歌とのこと。これには小町自身もビックリです。


当然、小町と黒主は万葉集を廻って激しく言い争うことになるのですが、真州ももうおじいちゃんなので(失礼)、自然とこの何十年後かに起こるであろう「卒都婆小町」や「鸚鵡小町」の場面を思い起こさせます。


そして、これが証拠ですッ!と黒主が文字通り小町の前に叩きつけたのは、なんと黒主が改竄した万葉集の草子だったのでした・・。ここまでくると、小町の側に座っていた「官女」たちもすすーっと離れていきます。


この時の、もの言わぬ真州のもの言わぬ演技が素晴らしかった。ただ座っているだけなのですが、心底まで落胆している気配が伝わってきます。衆目を一身に集めつつ、そして「恨めしや・・」と思わず漏れた本音の強さに、これまた後の老女ものでの小町の片鱗も窺わせたのでした・・。


ところが、黒主が叩きつけた草子をよくよく見ると、新たに書き加えられた行は乱れていて、墨の色も違う・・(昨日の今日なので、まぁ当然ですね)、と黒主の改竄に気が付く小町だったのでした。


これに対して、『やっぱり!』よりも『恥かしい』と小町が反応するのは、曲中でも繰り返し言われているように、和歌は神聖なもの・・という感覚なのでしょうね。


しかし流石に、清流から汲んだ水でこの草子を洗いたいと言いだした小町に、あの紀貫之も意外と常識的に、いやそんな上手くいくわけないじゃん。。的な反応。しかし、泣きながら思わず立ち去ろうとする小町に、キムタクの「ちょ、待てよ・・!」ふうに呼び止める貫之しみかん。(←発想が古い。)(←実際の舞台では勿論そんなノリではありませんでした。)

 

貫之の奏聞にミニ帝は明快に、ならば洗ってみよと英断を下します。


ここでシテ小町は大胆にも唐織を脱ぎ捨てて、裳着胴姿になってみせるのだけど、それからあれこれと和歌の徳を語っていて、あの、もう、早く洗ったほうがいいのでは・・と言えないもないけど・・。


勿論、扇で小町が清き流れを万葉集に注ぐと、あら不思議、黒主が書き加えた筆跡は見事に洗い流されて行ったのでした・・。


この事態に、黙って座っていた黒主も「もうオレ死ぬから」と席を立つのですが、心優しい小町は、「これも一生懸命さの表れですこと、おほほ」とか言って許しちゃうのですね。加えて帝も、黒主もそこまで熱意があるのはいいことだよ、とか言って座に戻るように促します。


帝に言われちゃ〜しょうがないよね!と黒主も、そこは妙に立派に居直るのでした・・。結局『まぁいいんじゃないの?』と有耶無耶に終わってしまうあたり、日本古来の伝統を感じさせなくもない(笑)。


さらには、これにて大団円ということで、小町は長絹を身に着けると、優美に舞を舞って、御代を言祝ぐのでした〜。。。


と言っても、小町は本音ではやはり黒主を許していなかったのかもしれません。シテが常座のあたりでターンを華麗にキメた時、小町の紫色の袖が、ぺちっと黒主の顔面をヒットしていたことでした・・。


続いて、狂言「横座」。


この「横座」では、な、な〜んと石田淡朗が「牛」になって登場です。牛から修行しなおすことにしたのでしょうか。
賢徳の面に黒頭を着けた、あの独特な狂言としての「牛」スタイルだったので、ホントにタンロー・イシダだったのかは分からないのですが・・。


ともあれこの曲は、シテ(幸雄)が、赤ちゃんの頃から大切に可愛がっていた牛が何者かに盗まれてしまい、これを取り戻すという物語(和泉流だとちょっと短いようですが)。


その牛は座敷に上げて大切に育てたために、「横座」とその名を呼べば返事するとのこと。


昔の主を忘れてしまったのか、二度までは呼び掛けられても返事をしなかった『横座』くんですが、幸雄が念入りに因果を含めると、見事に「んんもぉぉぉ〜っ」と返事を返していました。


これにはシテも嬉しかったことでしょう。帰っていく二人に、牛を見つけたと言っていた万作も、慌てて轡だけでも返せと追いかけていくのでした〜。めでたしめでたし(?)。


で、さて、「春日龍神」。


ワキの明恵上人は声も姿もよくて、明恵上人の品位が伝わってきて素晴らしかったのですが、緊張していたのか肝心のシテに、謡に妙なクセがあり、棒読みというか棒謡というかどうも中身がアタマに入ってきませんでした・・。


シテはまだ新人とでも呼べるようなヒトで、やはり「それらしく観せる」ということだけでも大変なことなのだなぁと、別な納得感があったことです。


動きの激しい後シテの龍神よりも、前シテの老翁(神職)姿の時のほうが、動きが静かなだけに演じていて難しそうだったのも興味深く思ったことでした。


曲の粗筋的には、春日明神が海外留学を決心した明恵上人を、必要ないよ、日本がいいよと引き留めるというもので、そのがんばりに免じて・・というところでしょうか、ワキもついに入唐渡天の夢は捨て、この地に留まることを誓います。

 

なんとなく、スレた目で観ると、ホントにいいのかなそれで・・・となる終曲二曲が揃った(笑)この日の銕仙会だったのでした〜。。。

 

 

 

 

 

posted by kuriko | 01:09 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
能に親しむ −観世流− (その2)

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(承前)


さて、お坊さん二人組がその御堂で休んでいると、どこからともなく(でもないけど)、陰鬱な雰囲気の囃子が流れ・・、揚幕が上がり、松明を手に、水衣、腰蓑と労働者スタイルのおじいさんがやってきます。


おじいさんは松明の火を振りながら、すーっと物憂く橋掛りを進むと、殺生を生業とするのはつらいが、生きていくためには仕方がない・・と嘆きの言葉を口にする。鵜使いなので、殿上人が喜ぶ明るい月夜よりも、闇夜のほうが都合がいいとのこと。


しかしこのシテは貴信キュンなので、持ち前の明るい声がいくらか邪魔をして(?)、怪しげな影のある老人というには、いささか端正過ぎた感もあり・・(余計なお世話ですね)。


シテが御堂に上がってくると、先に上がっていた僧たちと勿論鉢合わせです。そこで早速、また尊大なワキ僧が(笑)現れた不思議な老人が鵜使いと聞くと、若い者ならともかく、そんな年なのに殺生なんてやめてはどうかと諭し、シテはごもっともだけど、ずっとこれで暮らしてきたので今更やめることはできない・・と応じる。


ここで、ワキツレの寛が、はた。と、そういえば、2、3年前にもこの男に会ったことがあると言いだす。2、3年前にも偶然出会い、その時も同じように殺生を戒めたところ、その男は感じ入って自宅でもてなしをしてくれた、とのこと。


実はこのエピソードが後場でもちゃんと生きてくる伏線となるのですが、お能にしてはちょっとヒネリのある感じです。


しかも、その男は殺生禁断の場所で鵜を使っていたために、なんと殺されてしまったのだとシテ自ら語る・・。そして自分こそがその幽霊なのだと凄みをもって、すっぱりと打ち明けるのでした。ちょっと気取った言い方をすると(笑)、文字通り懐に隠し持った刃(ドス)が、ひやりと煌めくようです。


(ここ2、3年の間にシテは死に、幽霊となり、生前出会っていたお坊さんと再会するというのは、お能にしては(現在物は除く)わりと時間感覚が短いような気がする。)


ワキもなんと前場のうちに、では懺悔のために自分のその殺生の業をお見せなさいな、弔ったげるから。と、勧める。


鵜之段は面白い場面なのだけど、狩猟本能につき動かされて・・というより、現在では観光資源にもなっているような、情景の面白さが先なのですかね。


能舞台では扇が、ある時は刀に、ある時は盃にとなんにでもなるけれど、この場合はなんと川面に放たれる鵜にもなり「この川波にばつと放せば」と、銀の扇がキラリと開かれる・・。


やがて鵜使いの有様をやり尽くすと、前シテはあの世へと帰り、アイの泰太郎が再びやってきて、ここで実は・・とアイ語りになるのですが、大体のアイ語りでは『詳しくは知らないのですが・・』とか言って昔語りになるところが今回は泰太郎が「実は私も一緒に殺りました」的なことを言っていて、オマエも殺ったんかい?!という感じでちょっと可笑しい。しかも大竹を割って簀巻きにして・・と、さすが(?)当事者なので殺害方法まで具体的に説明してますた。。
(最初にアイが、村の掟で旅人は泊めないことになっている・・みたいなことを言ったのも、その辺がホントの理由だったりして・・)


川の石に御経を一文字ずつ書いて供養するワキたちの前に現れたのは、変わり果てた姿の後シテ・・ではなく、なんと別人の異形の鬼のようでした。ただ地獄のオニ・・・とだけ本人は名乗っていたのですが、赤頭に唐冠をつけ、小ベシミに法被(だったかな?)を着た、ヒラの鬼というにはかなり立派な出で立ちで、雰囲気(?)的には閻魔大王のようです。


しかもこの鬼が語って曰く、この者(前シテ)は若年から漁ばかり行い、罪状を記した鉄札は数多く、金紙には書くこともない・・けれど、一度お坊さんを供養しているので、許す・・とのこと。前場でのワキツレの話が、伏線として活きている感じです。

 

「鵜飼」は榎並の左衛門五郎(?)が書いた曲を世阿弥が改作したとかで、結果として偶々そうなっただけかもしれないケド。お能の演出って、わりと「結果としてたまたまそうなった」パターンが多そうな気がする・・。


しかも法華経songなので、法華経ならどんな身分の人でも救われるのですよ、ということらしい。ただの川辺の石であっても、有り難い御経を書き込めば、投げ込まれた水中で一文字ずつが仏となって・・と、そんな光景が目に浮かぶようです(井上靖ふう)。

 

もともと、かなり暗かった話をこうして、ちょっと明るめに洗練させるというのが、やっぱり世阿弥らしいなと思ったことでした。

 

おわり。

 

 

posted by kuriko | 22:59 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
能に親しむ −観世流− (その1)

花筏.jpg

仕舞
箙     藤波重孝
夕顔   睛良一


解説   関根知孝


鵜飼
シテ   坂口貴信
ワキ   殿田謙吉
ワキツレ大日方寛
アイ    山本泰太郎


大鼓   大倉栄太郎
小鼓   幸信吾
笛     八反田智子
太鼓   大川典良


地頭   関根知孝

 

※2019年4月13日(土) セルリアンタワー能楽堂にて

 

というわけで、久しぶりに(笑)、セルリアンタワーでお能など拝見してきました。
なかなか面白かったです。「鵜飼」は一応、エンディングに救いというか、明るさのある曲なのですよね。


「箙」「夕顔」と仕舞があって、知孝の解説です。


このヒトの解説は初めて聴いた気がするけど、メガネをかけて、ちょっとキンチョー気味に(笑)話す知孝は、能の舞台で観るのと全然違う雰囲気でした。


今回はお狂言の上演がなく、真面目でシリアスな能だけになって、ちょっとカタイほうに偏った番組になってしまった。とか・・、


モーツァルトも今では古典だが、生きていた当時はマジメさがないと批判されたりもした。お能もモーツァルトより古い時代に成立していて、マジメな時代だったのですね(笑)。


お能は真面目な芸で人間性を追求し、狂言は同じ舞台で滑稽や笑いを担当して、分化、分業してきたのです。鶏は、雄、雌で「つがい」で売られたりしていますが、「番」は蝶番と同じ字を書きます。お能もお狂言と一番いで、これを「番組」と呼ぶようになったとのことです。本日の「鵜飼」でも、アイとして狂言は出てきますが、別にふざけたことはしません(笑)。

 

「鵜飼」は甲斐の国、山梨県の石和川が舞台で、ワキの旅の僧は、日蓮上人と思われますが、はっきりとは名乗りません。「現在七面」や「身延」では、日蓮上人として出てきます。日蓮上人としてしまうと、説教をさせたり、扱いを変えなければならないからでしょうか・・。


・・と、ここからはしばらく「鵜飼」の粗筋の解説で、それからお能の感想は、一言「面白かった」で充分です、とのこと。思いもよらぬことに出会った、心を引き寄せられて心を開く、それが「面白い」です、と。


「鵜飼」にもオニが後場に登場しますが、お能の鬼には2種類あります。血統書の無い(笑)鬼は、もともと人間だったのです。愛していた人、尊敬していた人などに裏切られると、想いがツノって人は鬼になります。


これに対して先祖代々、もとからの鬼は人情がなく、ただ正義のために働きます。死後の閻魔大王の審判で、「鵜飼」の前シテは、殺生を生業としていたために、生前の善行を書く「金紙」に書くことが何もなく、悪行を書く「鉄札」は何枚にもなった。しかし、(死ぬ)2、3年前にお坊さんにもてなしをした唯一の善行で極楽浄土に行けることになったのです。


鬼が法華経の思想で亡者を浮かめることが出来た、そうした曲です。同じく『三卑賤』の「善知鳥」「阿漕」は死後の苦しみを観せるのですが、「鵜飼」では後シテが法華経の教えにより、鬼が堂々と救うのです。こうした鬼を描く曲を面白く観せることができたら、「岩に花が咲く」と言ってたいしたものなのです・・等々、話してました。


「当時はお宿をネット予約なんで出来ませんから(笑)」とか「EUのBrexitで水産資源でもモメていますが・・」と、時事?ネタも時折混ぜ込んだお話ぶり。切戸口に引っこんだ後に、ピンマイクのスイッチをoffにするのを忘れて「あ〜時間が丁度でよかった・・」とか話しているのが、一瞬?見所に丸聞こえになったのはご愛嬌でした(笑)。


で、さて、「鵜飼」。


囃子、地謡が登場すると旅のワキ僧が登場するわけですが、ワキは『とのけん』で、だいぶ痩せてたけど、声は細ることもなく、お元気になられたようでよかった。


しかしこの「日蓮上人を思わせるワキ僧」は、高僧だけに態度がわりと尊大で(笑)、石和の里人に宿を求めて断られると、「あっそ、じゃあいい」とぷいっと背を向けてしまったり、「あの御堂に泊まるといいよ、お化けでるけど」と教えられても、「自分は法力高いからオッケー」みたいなこと言ってて、ちょっと個性がある感じでした(笑)。

 

つづく。

 

 

posted by kuriko | 22:34 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
西行

さくらら2.jpg

 

あたら桜の とがには有りける

 

 

今年の桜も、もうすぐ見納めです。

って、その木はずっとそこにあるんだけどね・・。

 

 

 

posted by kuriko | 01:08 | 番外 | comments(0) | trackbacks(0) |
雑談

DSCN6162.JPG

 

Japanオリジナルということにしたかったけど、元ネタは中国だった・・というあたり、日本文化の成り立ちに想いを馳せるよい事案だったのでは・・。

 

お能の詞章でも「カッコいい詞章だなぁ〜」と思っていると、漢詩の引用だったりとかフツウですしね。

 

 

 

 

 

 

 

 

posted by kuriko | 00:36 | 番外 | comments(0) | trackbacks(0) |
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