能楽鑑賞などなどの記録。  
Scrap and...

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今日、人と話していて、***するのを取り止めにした、と言うべきところを、何故か間違えて「取り潰しにした」と言ってしまい、「そうか、東京の街には今頃、浪人どもがあふれているね」と返されて、めっちゃ笑ったことでした。

 

毎日いろんなことがあるけれど、はぁ〜。。毎日が善き哉。。。☆

 

新しい能楽堂のこと、当事者でない人たちはこれから色々言うだろうけど、別にいいと思う。。

 

むしろ、銀座みたいな場所に作れたっていうのが意外だった。
作ったっていうより、テナントとして入ったっていうほうが正確なんだろうけど。。

 

だって、いまの能楽にいったいどれだけの体力が残っているだろうか?って気もするし・・。

 

みんなオリンピック利権になんとか乗っかろうとガンバったり、忙しいアピールだけはしてるけど、近い将来もし興業だけで食べていくことになったら、公演の形態も特殊だし、逆に流儀だのなんだの、人が多すぎる気さえする。少しでも体力が残っているうちに、やれることはやっておいたほうがイイ、と思う。

 

神社(パワースポット)ブームとか、刀剣ブームとか、瞬間風速的なものは今後突然起こるかも、、とは思うけど・・・。

 

 

posted by kuriko | 22:24 | 能・狂言 | comments(1) | trackbacks(0) |
狂言ござる乃座 55th

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附子
シテ 野村裕基
アド 野村遼太
   野村太一郎

 

清水座頭
シテ 野村万作
アド 野村萬斎

 

弓矢太郎
シテ 野村萬斎
アド 石田幸雄
   月崎晴夫
   高野和憲
   竹山悠樹
   深田博治
   内藤連
   中村修一
   飯田豪
   岡聡史


※2017年3月30日(木) 国立能楽堂にて。

 

 

というわけで、萬斎さまの「ござる乃座」に行ってきました〜!
久々の本狂言の公演。とっても面白かったです!


附子。

 

裕基、遼太に比べると、主人役という役柄もあってか、太一郎は断然お兄さんで、完成度が全然違ってました。破られてしまった掛軸や、割られてしまった茶碗に目を遣る場面など非常にウマかったです。(←上から目線。)

 

すっかり狂言方らしくなった遼太(相変わらずおカオが小さい!)に比べると、一番年少の裕基が一番ヘタっぴだったけど(笑)、それでも安心して観ていられたのは、やっぱり厳しいお稽古の賜物でしょうか。

 

遼太、裕基、太一郎と並ぶと背丈のバランスも山型になるところもイイ。泉下の万蔵たち(複数)も、さぞかし・・と、ありがちな感想がつい漏れます(笑)。

 

清水座頭。

 

お能の番組立てが意識されているような今回のプログラムで、この一曲が本当に素晴らしく、ちょっと、かなり、感動してしまいました。。。万作も萬斎さまも、やっぱり特別というか、凄いというか、改めてこの二人の存在の大きさに気づかされるというか・・・。

 

それに、物語もしゃれた外国の(笑)恋愛映画みたいで、伏線張りや、ちょっとしたどんでん返しまであって楽しい。作者の非凡を感じました。この作者が現代アメリカにでも生まれていたら、ハリウッドかブロードウェイあたりでウデを振るっていたのではあるまいか。

 

舞台には、まず女性の美男鬘をつけた、女姿の萬斎さまが登場です。思い詰めたような、きゅっと固くうつむいた顔立ちが綺麗。クリーム色の控えめな文様の入った縫箔も、品があって御洒落です。

 

彼女は杖をついている「瞽女」なのだけど、本人の話すところによれば、最近になって病により失明したいわゆる中途失明者らしい。おかげで結婚も仕事(奉公)もままならない・・と、かなり苦労している様子です。この日は清水の観音様に、祈願したいことがあってやってきたとのこと。
(←この物語では、「瞽女」という名乗りに女性芸能者という意味は、あまり強くなさそうだった。後半で小歌を披露したりしてたけど。)

 

つづいて、同じく「座頭」である万作の登場。

 

そしてこれが何というか、万作の「座頭」としての演技、特に目の不自由な人の運行の再現というか、橋掛かりの出にはとにかく際立ったものがある。本当のことを言って、この登場シーンには観ていて鳥肌が立った。

 

こつこつと静かに杖をつき、片手で周囲を探るようにして橋掛りを進むのだけど、登場のその瞬間から、彼が暗闇の中にある、その運命を文字通り手さぐりで歩んでいるのが伝わってくる。シテ方やワキ方とはまた違う、リアリティとその緊張感。そして根底にある、異形の者としてガラリと辺りの空気を変える存在感。ほんとにすごかった・・・。

 

万作も同じように清水寺に参詣に来て、こちらの願い事はなんと、『申妻』(縁結び)とのこと。結婚して子供も欲しいんです・・みたいな。ところが、先に祈願していた瞽女(萬斎さま)とぶつかってしまい、萬斎さまが俄然、ブチギレと言っていいくらい非常に怒る。


「あなたも私をからかおうと言うのね!」みたいな台詞の彼女の怒り方、だけどどことなく気弱な、相手に対して強く主張しきることもできないその様子。萬斎さまもパンフレットの御挨拶に書いているのだけど、狂言らしい「わわしい女」とは全く違っていて、光を失ってからの様々な事に彼女が深く傷つき、自分のことを弱者と思っている、そんな気配が伝わってきて、こちらも素晴らしい。

 

やがて二人のやり取りから、お互いが盲目であることを知る・・・という、繊細な機微のある物語。

 

しかし万作のほうは、台詞から察するに生来の盲目であるらしく、萬斎さまに比べると大らかで余裕がある。お酒を持ってきてるので、一杯やりませんか?と、にこやかに話しかける。

 

この時、萬斎さまのほうは『ああ、また失敗してしまった・・・』と落ち込みながら、ぎゅっと全身を固くするように座っていて、女心の伝わってくる萬斎さまの女優ぶり。そして、万作から一杯だけお酒をもらうと、ちょっとほっとしたようなリラックスした雰囲気に変わります。

 

一曲謡いましょうと、万作は「平家」を披露し(ちょっと息が苦しそうでしたが)、萬斎さまは小歌「地主の桜」でのいいお声は変わらず。場面が急に華やいで、二人で楽しそうです。お互いに盲目の二人にとって、心と声の美しさは超大切、な筈。

 

二人とも観音様のお告げを授かろうと、やがて眠ってしまうのですが、萬斎さまのほうが先に目覚めて、観音様のお告げがあった!と、喜んで先に出て行ってしまいます。

 

続けて万作も目覚め、観音様のお告げで、妻となる人と出会おうと西門のほうへと向かう・・・。

 

二人は目が見えないので、見所のほうが二人はちゃんと再会できるのだろうか・・と、ドキドキしながら見守る。万作が橋掛かりに佇んでいる萬斎さまを、そうと知らずに探し当て、お互いの杖が当たって、カチリ、と音がする瞬間がなんともロマンチック・・・。

 

そう、瞽女の願いもまた、生涯の伴侶を得ることだったわけです。「もしかして、君も独身・・・?」みたいな台詞に続けて、一緒に謡いながら心を開き合っている様子も、微笑ましく、美しく、まさしく「室町のミュージカル」でした・・!

 

やがて万作が萬斎さまの手を引いて、二人で一本の杖で歩むのですが、このときすっかり小さくなった万作に寄り添うようにして、萬斎さまが背中を曲げて小さくなっていたところが可愛かった・・。本当に素晴らしかった一番でした。

 

弓矢太郎。

 

こちらはもう、萬斎さまのカワイイ節が炸裂した鉄板の舞台。本当は臆病なのに、雄々しい扮装で強がってみせる、なんとも狂言らしい人間の世界です。面白かった。

 

途中、萬斎さまが、ずらりと居並んだ万作家の若手(?)たちの名前を挙げて行くシーンがあったのですが、万作家の弟子たちも増えて、ここで萬斎さまが「えっと、おまえ誰だっけ・・」とか言ったら面白いな、とか思ってたのですが、そんなこともなかったです(笑)。

 

壮大な(?)仕掛けで始まるのだけど、エンディングが案外あっさりしているのも狂言らしいような。

 

非常に楽しく、行ってよかったと思える公演でした。

 

 

posted by kuriko | 11:57 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
国立能楽堂三月企画公演 復興と文化后 (その2)

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(承前。。時間が空いてすみません。。)

 

 

揚幕が上がり、シテの登場です。茶系統の色合いでまとめた木樵の出で立ち、柴を背負い、しかし杖を突き、面は「小尉」とかいう名の老人・・・という姿。ワキたちの視野に遠く入ってきた、名もなき山賤の姿です。

 

ここは、パンフレットに掲載されていたシンペー(松岡心平)の解説によると、喜阿弥の「炭焼の能」から世阿弥が転用した、山水画の如き、いきなりの名場面となる・・はずだったのですが・・。

 

元々、特に最近はハコビに奇妙なクセを感じさせるGSなのですが、一歩々々の進み具合に、ヘンな硬さを感じる・・。手にした杖が飾りでなく、本当に杖として機能しているようで、コツコツという音がちょっと大きいような。

 

そしてシテは、一ノ松あたりに立った一声で、「あれなる山人は荷が軽きか家路に急ぐか・・・」と能らしく、自らの立つ情景を、第三者の視野の広大さで語る・・・のですが、ここの謡が音も息も軽く、GSとはちょっと思えないぐらいで、世界の広がりを感じさせない。

 

ちょっとびっくりしているところに、シテは舞台へと進む。もしかしてこれはリアリズム的な表現で、老いた山人が、重荷に耐え忍びつつ歩んでるところなんですよッ!ということかと思ったけど、まぁ絶対にそんなこともなさそう。

 

ツネ2がシテに声をかけるのですが、タカビーな実方の、上から目線な雰囲気がよく出ていて良いカンジ(?)でした(笑)。名高い阿古屋の松はどこかと尋ねられ、「知らない・・・」と答えた老人に、昔のことを知っているかと思って、わざわざ年寄りに訊いたのに・・と言う、感じの悪いワキ(笑)。

 

さらに、阿古屋松は昔はこの国にあったけど、今は出羽の国にある・・と答えたシテに、ワキはお得意のナビかせ笑いです。あざ笑う都人に、ここでシテは、笑うんじゃない、と意外な滑らかさで詰め寄るのですが、どうも今回のGSは『ふぬっ!ここだけは!』という気合いの入っている場面と、そうでなかった場面の起伏が激しかった印象。

 

ただ、木樵の老人の役柄としては、実方の非礼にかなりカッチ〜ン!ときていた・・・という雰囲気でもない。神の化身にふさわしく?静かに高慢なワキを教え諭すような雰囲気です。

 

ここはやはり(GSらしく)葛桶に腰かけて、同じく腰かけていたワキと同じ目線の高さで、静かに向き合います。かつて日本は三十三箇国だったけれど、今は六十六箇国に分かれている。陸奥の国も出羽の国と分かれたから、阿古屋の松は、今は出羽の国にあるんだよ・・・とのこと。
(←六十六という数字に、なにかお目出度い意味でもあるのだろうか?)

 

下々の者だからって、腐すものではない・・と、たしなめられ、さすがに感じ入る実方。樵の老人に案内してもらって、阿古屋の松を見に行くのですが、ワキのほうだけワキ座から大小前へとくるくる歩いて、道行を表現?していたようなのだけど、二人の間に実はそんなに距離があったのかしら・・。。

 

舞台にシテとワキ二人並び、さらに道は遠く、阿古屋の松を尋ねて行きます。これが詞章にも「野くれ山くれ里過ぎて・・・」と、結構な距離感の表現で、往時の東北のイメージというと、そんな感じであろうか。新幹線も無いしね・・。

 

そして念願の立派な松の木を見つけ、ワキたちが喜んでいると、シテは急に塩竈に返ると言いだし、自らの正体も明かして消え失せます。

 

この時シテは、杖をカラン・・と捨てて、急に走り去るようにするのですが、急にすごいペースになって、ここであそこまで走る必用もなかった気も・・。海に出て、波の上に乗って移動していった・・・というカンジなのかな??

 

里人の東次郎が通りかかって、ワキたちに阿古屋松の謂れを教えてくれるのですが、この時、実方も少しは反省していたと見えて、アイへのものの尋ね方が丁寧でした。そしてお互いに下居して、同じ目線で語り合います。

 

アイの語るところによると、阿古屋の松は、老松の精と人間の女との悲しい異種婚姻譚によって生まれた名木らしい。美しい阿古屋姫と、人間に化けた老松の精は夫婦となるのだけど、洪水で流された橋をかけ直すため、老松は伐り倒される。阿古屋姫がその場に呼ばれるまで、老松は伐られることを拒んだそうな・・。阿古屋姫がその跡に、新たな松の木を植え、それが阿古屋松と呼ばれるようになったとか・・・。

 

東次郎、お風邪なのか、お声がちょっと枯れた感じでしたが、端正な聴き取りやすい語り口。理路整然とした(?)展開が、なんだか東次郎らしいな、と思っていたのですが、もとからこうした伝説があったというのにも、ちょっと驚いた。

 

最終的には、自分が伐られる運命にあることを受け入れるというのが、なんとも草木らしいと感じるし、結婚した相手が、実は蛇でした。とか、鰐でした。とか言うより、松の木でした、というほうが、まだ気持ち的には楽かもしれない。(なんとなく。。)
(←橋として再生したと考える人はまさかいないだろうけど、どちらにしても、人間側からみた理屈でしかないのは、言うまでもない。)

 

そして東次郎の、きびきびとした元気のよい仕草が、日頃の鍛錬も感じさせたのでした。

 

さて、いよいよ、出端の囃子で後シテの登場です。

 

初冠を着けた真っ白な髪に、紫がかった色合いの、透けるような白い狩衣、一見、大口かと思うような、裾を拡げて着つけた白地の指貫。面は「腰巻尉」の、上品な美しい出で立ちだったのですが、装束が夏物みたいに薄くて軽く観える。。。まさか化繊ということもないだろうけど、ちょっと変わった質感だったようにも観えました。

 

シテは縷々松の功徳を語り、さらには実方が賀茂の臨時の祭で舞った様子も真似て舞う。・・・のだけれど、後シテの舞は、率直なところカタカタと硬く、実方としての優美な舞なのか、塩釜明神としての舞なのか、ちょっとブレていたように思う。一体どうしたのだろう・・・という感じでした。。

 

しかし「実方の盛りの 花やかに 妙なりし舞姿」のあたりで、シテは実方のナルシストぶりさえも真似て、水鏡に映った自分の姿をうっとりと見つめるのですが、ここは立ったまま、軽く覗き込む。自分に陶酔しているナルシストを、さらに第三者(?)が客観的に真似ている光景かと思うと、ちょっと面白い。

 

そういえば、「西行、阿古屋松、おほかた似たる能なり」と、ゼアミンが書き残している「西行」は、やっぱり「西行桜」のことなんじゃ〜ないのかな?という気がした。「西行桜」のほうは、西行が桜の木に文句を言ったら、桜の木のほうが、それは無いぜと夢の中に出て来る。「阿古屋松」のシテは塩竈明神だけど、結局、松の木と同体と雰囲気もあるし、非情と言われる植物のほうから訴えかけがあるところが似ているような。

 

シテは立ち去る前に、いつものGS節で、じぃっと熱くワキを見つめていく。しかし高慢な都人の実方が、東北の自然に触れた、その交感・・・というには、後シテの舞の様子からは、結局何が言いたいのか、ちょっと分からないカンジもあり。

 

なんとなくクリコの中で、消化不良な舞台となったのでした。。。

 

(おわり。)

 

 

posted by kuriko | 22:27 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
国立能楽堂三月企画公演 復興と文化后 (その1)

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講演 
鎮魂と再生の身心変容技法としての
神楽と能というワザヲギ

                   鎌田東二


復曲能 
阿古屋松 
シテ   梅若玄祥 
ワキ   森常好 
ワキツレ 舘田善博 
      森常太郎 
アイ    山本東次郎

 

大鼓   亀井広忠
小鼓     大倉源次郎
笛     藤田六郎兵衛   
太鼓   林雄一郎 (代演)

 

地頭   観世清和

 

節付・型付  観世清和
監修     松岡心平
間狂言台本 山本東次郎


※2017年3月23日(木) 国立能楽堂にて。 

 

 

というわけで、久々に「阿古屋松」を観てきました〜!

東京での「阿古屋松」初演の公演は、2012年だったからもう5年も経ったのですね・・・。

 

さて、冒頭には鎌田東二の講演があったのですが、例によって遅れて行ったので、半分?ぐらいしか拝聴しておりません。講演と能一番のみというシンプルな番組だったので、45分ぐらいはお話されるかな?と勝手に思っていたのですが、30分ほどのお話でした。

 

・・・・が。

 

と、東二、話つめこみ過ぎ・・・(笑)・・!

 

も〜、あれもこれも全部話しておかねばッ!というハイテンションで、非常に面白かったです。懇切丁寧な(?)内容の、これまたかなり詰め込んだレジュメ(←レジュメじゃないw)が配布されていて、まぁそれで助かりました(笑)。

 

というか、このレジュメの内容で一番ええ〜っ?!とびっくりしたのが、鎌田東二はなんと、能「朝長」にも登場する鎌田正清、源義朝の乳兄弟の子孫らしい・・・!!(←義朝と一緒に討たれて死んだ隋一の家臣である。)

 

そういえば、確かに源頼朝の時代になってから、その功績を称えて正清の娘(男子がいなかった?)が地頭職を与えられた、いま流行(?)の「女地頭」の話があった・・・!その人の子孫ってことなのかしら・・??しかしそのおかげで、毎年の御正月はその御先祖さまの死に様について聞かされる、非常に暗いものだったそうな・・(と書いてある)。

 

毎年の御正月には御先祖の話、っていうのが、なんだかキヨんちみたいだわね。。。キヨんちはもっと頻繁にイロイロやってそうだけど。。

 

で、さて、お話の内容は、途中からきいた半分ぐらいのところでいうと、大体こんな感じでした。

 

◇(鎌田東二は)66歳の誕生日に比叡山で3回(天・地・人)バク転した。以前はもっと頻繁にバク転していたけど、最近はトシなので、大事な日にだけバク転するようにしている。

 

◇能に謡われる「草木国土悉皆成仏」というのは、天台本覚思想であり、それは千日回峰行のような「行」に支えられた体感的な生命感が根底にある。

 

◇能のワキの「諸国一見の僧」とは、諸国を経巡る修験者でもあり、(比叡山)常行堂の摩多羅神を祀った、後ろ戸で行われていた芸能が能の発祥でもある。能のある側面は修験道である。

 

◇世阿弥は「風姿花伝」に能(申楽)の起源として次の三つを挙げている。
1.天の岩戸隠れの際に、アメノウズメが神がかりしたワザヲギとなった神道的起源
2.お釈迦様の説法中に、一万人の外道がやってきてこれを妨害したため、三人の弟子が六十六の面白い芸能でこの外道たちを楽しませ、お釈迦様は無事に説法を終えることができた、という仏教的起源
3.世阿弥の祖先である秦氏の河勝が、聖徳太子に命じられて六十六の芸能を作った、家伝的起源

(←ゼアミン。。全部いいとこ取りだな。。と、さすがに心の中でツッコんでいたクリコ。。)

 

◇「阿古屋松」は、「申楽談儀」に登場するが、これは草木国土悉皆成仏的な思想の曲である。世は乱れ、戦争で多くの人が命を落とす中でも、『魔縁を退け、福祐を招く』、それが申楽だと世阿弥は言っている。

 

◇神楽は神がかりだが、能は半・神がかりだと思う。(シテは)前場では人、後場では神あるいは死者として現れる。ワキはシテの話を聞き、そしてシテが成仏するのを見届ける。精神的な痛み「スピリチュアル・ペイン」を取り除く。『魔縁を退け、福祐を招く』心身変容技法としてのワザヲギ、それが能の精神である。

 

◇世阿弥は日本最大の思想家の一人であり、世界最大の演劇人の一人である。演劇というものの精髄と聖性を一番持っているのが能である。

 

◇京都の能楽師・河村博重とともに、「鎮魂能舞」を作り、東北の被災地で奉納する活動も最近は行っている。(チョビ実演つき←謡と舞と現代語の語りと祈祷が1つになっている・・みたい??)

 

・・・そして、いつもの石笛を舞台で吹いてフィニッシュ。東二はここ10年は、世阿弥の研究にハマっているようですが、上智大学でグリーフケア研究にも関わっているみたいですね。 http://www.sophia.ac.jp/jpn/otherprograms/griefcare

これは久々に、能の本(東二の本)も買って読まないとね・・。

 

で、休憩を挟んで、いよいよ本番です。が・・・。

 

う〜ん、これが、あまり良い出来とも言えない舞台だったかな〜・・・というのが、クリコの率直な感想です。GSの衰えのようなものさえ感じられて、ちょっと驚いた。もちろん、GSだって人間なのだし、加齢による身体的な変化だとか、ある程度の好不調の波は仕方がない・・とは思う。

 

しかしなんて言うのだろう、それでもこれまでは感じた、『GSマジック』みたいなものが、もはや消えかけているというか、桜の花が散って徐々に老木となるような趣とは異なり、胡蝶蘭の花がいきなりバサリと落ちたかのような印象。それとも、GSお得意のマジックが、もう私には通用しなくなったのか(笑)。

(←「そりゃ、クリコがGS嫌いだからでショ」と言われれば、まぁそうカモ。)

 

三役が非常によかっただけに、ちょっと残念。

 

それについでに言うと、どんな曲でもそうだけど、この曲もシテがダメだとどうにもならず、物語的にも、私にはあまりしっくり馴染むものを感じさせなかった。前回はキヨがシテだったし、結構楽しく観た覚えがあるのだけど、今回はGSだし(←結局そこ)、しかも後述の状態で、ノルにノレない・・・という感じ。

 

世阿弥作だし、面白くないわけなかろう、とは思うのだけど、この曲がいついかなる理由で退転したのか知らないけれど、それにはそれなりの訳がやはりあるものなのか??あるいは、これまで上演されてこなかったがために、未だ洗練の途上なのか?ヨーシ今回は、しっかり観るでぇ!と、私なりの意気込みをもって臨んだのですけどね。。。

 

とまれ、舞台にはツネ2たち、藤原実方の一行がやってきます。濃い緑に金襴の模様入り狩衣、白大口姿のツネ2。松の緑と都人の華やかさを伝える出で立ち。

 

「さることありて」、陸奥守に任じられたので、折角なので紅葉狩などしている途中らしい。向こうに樵の老人がやってくるので、尋ねたいことを訊こう・・と、笛座前のあたりから、はるか中正面の方向を見渡す。

 


(その2へとつづく。)

 

 

posted by kuriko | 00:20 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
国立能楽堂三月普及公演

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解説・能楽あんない
鏡の虚実 ―能「昭君」の機巧―  大谷節子

 

狂言
濯ぎ川
シテ  茂山千三郎
アド  茂山逸平
    茂山あきら

 

昭君
シテ  観世銕之丞

    清水寛二
ツレ  西村高夫
    観世淳夫
ワキ  舘田善博

 

大鼓  安福光雄
小鼓  鵜澤洋太郎
笛    竹市学
太鼓  徳田宗久

 

地頭  浅井文義


※2017年3月11日(土) 国立能楽堂にて。
※時間の都合により、解説は拝聴しておりません。。

 

 

というわけで、千五郎家の「濯ぎ川」と銕仙会の「昭君」を観てきました〜!
どちらもとっても面白かったです!

 

濯ぎ川。

 

中世フランスの笑劇(ファルス)をもとにした、飯沢匡作の新作狂言とのなのですが、初演は1952年!能楽大事典にも載っているほどで、既に大蔵流の番外曲として申請?されているとかで、千五郎家にとって定番の一曲のようでした。

 

どことなくファルスっぽい(・・のか?)というか、新作っぽく感じられたのは、シテの千三郎が緞子のような生地製の、大きな袋をかついできたところ。中には洗濯ものの小袖が、実際に何枚も詰まっていました。

 

千三郎は入り婿で、奥さん、お姑さんに頭があがらず、こき使われている。という設定で、後半には紙に言いつけられる約束事(仕事)を書きとめるという場面があって、ここでも実際の紙面がが使用されていて、小道具が多いんだな、という印象です。

 

早速、シテは川でじゃぶじゃぶと洗濯をするのですが、ここで実際の小袖を使って演じていたのが新鮮に感じられました。千三郎の、気が小さくてちょっとセコイ旦那さん役がハマリ役。

 

逸平が気の強い、わわしい奥さん役だったのですが、こちらも古風な端正さのある(笑)わわしさでよかった。淡い鶯色に白っぽい花柄の縫箔も綺麗。わわしいけれど美人妻という感じです。
(←要するに逸平びいき。←「ごちそうさん」の頃より、今のほうがシュッとしててイイ☆)

 

旦那さんがわざと川に落とした洗濯ものを拾おうとして、奥さんは流されてしまうのですが、ここも縫箔姿なので足を揃えたまま、器用に舞台からシテ柱付近までゴロゴロっと転がっていくのも上手でした。シテ柱を中州に生えている木のように見立てて掴まる。

 

ここで千三郎が、先程お前たちが作ったお仕事リストに書いてないから、助けてやらないとか言いだし・・・、とかいう展開。もちろん、最後には怒った奥さんに追いかけられて、旦那さんはスタコラと逃げて行きます。

 

舞台に一人残った姑が、ヤレヤレ・・・という感じで、まがった腰の具合を直しつつ、お仕事リストの紙をビリビリと破って丸め、トメる。茂山あきらの姑役も手慣れた感じで非常に上手かったのですが、この最後の場面は大曲めかした余計な『もったい』をつけるかのようで、もっとサラリと終わったほうがよかった気がする。

 

昭君。

 

「昭君」は『世阿弥以前』とも言われる古い曲だそうですが、今回は銕仙会ならでは(?)の古式の演出となっていて、新作の狂言と、古態(を意識した)の能と、対照的といえば対照的な取り合わせだったかもしれません。

 

これまた能楽大事典によると、銕仙会での「昭君」の古式は、観世寿夫が最初に試み始めたらしい。以前、銕仙会で観た「昭君」とはまたちょっと違った(?)演出で、そこも興味深く思った。「してみてよきにつくべし」(byゼアミン)ですわね。

 

現行の演出では、前後で異なる役柄を一人のシテが演じるのですが、今回は二人の役者(てっつんとしみかん)が演じ、中入が無いためアイも登場しません。そういう意味では、この前日にあった銕仙会定期公演の「当麻」とも対照的です。

 

枝ぶりの片側のみ葉っぱが枯れている、柳の木の作り物が登場。枝を折って作ったのだろうか。。本物の柳の木だったと思うのだけど、上手い具合に枯れていて感心する。

 

冒頭には、ワキが扮した中国の里人をやってくるというのも、ちょっと珍しい(?)。こんなところも、職掌がハッキリ分かれていなかった時代の、古作の能らしいのカモ?(シテの訴えるところを聴いてやっている・・という点ではワキらしいのか。)さて、訪ねてきたワキの前に、シテ、ツレの白桃・王母の老夫婦が登場します。

 

皇帝の寵愛を受けていたはずの愛娘が、遠い異国の地・・、というより彼らにしてみれば野蛮人のいる地の果てへ送られてしまい、嘆き悲しんでいる二人。中国ふうの装束なので、二人とも老人の扮装に、丈の長い、側次のようなものを着ています。

 

遠い曲のためか、ちょっと謡に詰まっていたようなところもありましたが、前シテのしみかんの、この悲しみの演技が非常によかった。暗く沈鬱な謡いぶりが、格調高い能の型式を守りつつ、ギリギリと言っていいほどの感情表現であったように思う。

 

二度と会うことの叶わない遠い異国の地に娘を連れて行かれてしまい、さらには、もう死んでいるであろう・・・という二重の悲しみ。

 

画家に賄賂を贈らなかった昭君は、胡国に送られることになり、この柳が枯れるとき、私も死んでいるでしょう・・との言葉を残していったようなのです。老夫婦そろって柳の木の周りを綺麗にお掃除している姿は、これが脇能だったらおめでたさの象徴ですが、この場合は愛しい我が子を想う、哀傷の有り様です。

 

そんな経緯をワキに語りつつ、白桃(しみかん)は感極まったのか、そうだ鏡をかけてみよう!などと強い口調で語り出し、ついには、後見座のほうから大きな鏡を取り出します。

 

王母は「それは仙女の話でしょうに・・」みたいな感じでやや呆れた様子だったのですが、白桃は諦めがつきません。愛娘の残した柳の木であれば、鏡の魔力でその姿を映すことができるかも・・・?!と、なんと正先の柳の枝に、鏡を掛けるのでした。

 

するとなんと・・!夫婦の願いが通じ、一声の囃子で、揚幕がふわりと上がり、王昭君・あっつんの登場です・・・!

 

白い舞衣に赤い大口、王冠に小面という非常に可愛らしい取り合わせ、立ち姿もスラリとして気品のようなものさえ感じさせます。あっつん、綺麗になったな〜!と思った。卑近な喩えで恐縮ですが、急に化粧が上手になった二十代OLみたいな感じです。

 

・・・謡は相変わらずイマイチだったけど・・・。その昔、悪声でも名人と言われる人がいたそうだけど、もうこの際だから一回、声をつぶしてみるとかど〜かね?などと余計なことを思ったことでした。

 

昭君は物語の中では鏡に映った姿なので、大小前のあたりで葛桶に腰かけるのですが、正面から観ていると、柳の枝がジャマで、ちょっと見づらい。。。柳と昭君をオーバーラップさせる意味ではよかったかもしれないけど・・。

 

つづいてなんと!ムコの呼韓邪單于(てっつん)までやってきます!

 

黒頭にベシミの面の非常に恐ろしげな姿で、詞章によると元結もゆえず、耳にはチェーンのピアス?という、なかなかパンクな出で立ちだったらしい。

 

てっつん、前日の「姥」の面に、花帽子の時は全然平気そうだったのに、ベシミの面のほうが、むしろちょっと声が籠り気味だったかも。せっかく義理の両親に挨拶に来たのに、鏡を見ろ・・・なんて言われてしまうのは、ちょっとコミカル。案外、呼韓邪單于と王昭君は、生前は夫婦として上手くいっていたのかもしれません。

 

しかしこの曲の本当の主役は、そうした不都合な何もかもを映し出してしまう鏡自体だったのかも・・・と思う。前シテの白桃が、鏡の力を信じて、その映し出すものを見てみよう・・!と言いだすところが、演劇的には一番の見せ場だった。

 

そして観る人のご想像にお任せします・・、ではなくて、実際にぞろぞろ登場人物が出てくるあたり、古風というよりストレートプレイな感じで、面白かったです。

 

 

 

posted by kuriko | 01:08 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
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