能楽鑑賞などなどの記録。  
「TERROR テロ 」

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作   フェルディナント・フォン・シーラッハ
翻訳 酒寄進一
演出 森新太郎

出演 橋爪功
    今井朋彦
    松下洸平
    前田亜季
    堀部圭亮
    原田大輔
    神野三鈴

 

 

というわけで、舞台劇「TERROR テロ 」を観てきました〜!
かなり刺激的な内容で面白かったです!

 

・・・ですが、いま流行りの(?)観客参加型と言いつつ、驚くほど真面目な法廷劇というか、地味な台詞劇というかド直球な演出で驚きでした。

 

もちろん架空の設定ですが、ドイツで起こった大規模なテロ事件について、その後に行われた裁判そのもの、がテーマのお芝居です。といっても、裁かれるのはテロの犯人ではなく・・・。

 

164人の乗客を乗せた旅客機がテロリストによってハイジャックされ、7万人の観客がいた試合中のサッカースタジアムへと飛行し、観客もろとも殺害しようと企てる。緊急発進したドイツ空軍のパイロットは、この旅客機を撃墜させ7万人の命を救ったが、彼は殺人罪で起訴され、有罪か無罪か、その評決を下すのは観客。という筋立て。

 

観客は「参審員」として劇中に実際に(!)行う投票によって、舞台の結末に参加しちゃうのです。(画像はその投票用紙。)

 

ただし舞台には、映像の併用も派手な音響も、特に笑いもない。検察側と弁護側それぞれの主張と、証人や被告人の証言に、ただひたすら耳を傾ける2時間半・・。

 

実際の裁判となったら、もっと物証や写真なども出てくるのだろうけど、橋爪功が劇中でも言っていたように、根気よく淡々と事実と向き合うというのは、そういうことなのかもね。

 

このパイロットは有罪か、無罪か。人間の尊厳や命の重さはその数や軽重の問題ではない、という原則(憲法)か、より大きな悪に対しては、小さな悪も許されるべきとする、その時々に応じた正義か・・というのが争点。犯人はイスラム系との設定でしたが、テロリズムが生まれる要因等は、この舞台ではそのスコープには入っていませんでした。

 

ただ実際のどんな事件もそうだろうけど、哲学的、倫理的に聞こえる問題も、もし現実の出来事となると、様々な細かな事実の積み重ねがある。

 

以下はネタバレ的になるけれど、たとえばハイジャックが発生して、テロリストが行先を宣言したにも関わらず、スタジアムの観客を避難させなかったこと(知らせる時間はあったという設定)。国防大臣もパイロットの上官も、旅客機を墜落させるなと指示を出していたが、パイロットが独断でミサイルを撃ったこと。
(なのでこのパイロット個人が罪に問われているわけですが・・。ちなみにこのパイロットは、ものすごくマジメないい人、という設定。)

 

そして、排除しきれない可能性もまだあったこと。飛行機の中にいた乗客たちが、操縦室に突入しようとする直前だったこと(亡くなった乗客の妻が、受信した携帯メールをもとに証言する)。旅客機のパイロットのほうが、どう行動しようとしていたか・・が見えないこと。
(←アメリカの9.11の時は、それで実際に一機が墜落していたはず・・。)

 

ということで、私は量刑は考慮せず有罪に投票しました。発表された評決の結果も有罪だったけど、意外にもわりと僅差で驚き。ちなみに公演サイトによると、ヨーロッパなどでの海外の公演では、ほとんどの回で無罪になるんだとか・・。生見に皮膚感覚としてある恐怖感と、思考実験の違いでしょうか。評決後に裁判長が主文を話すのだけど、その結果によって2通り用意されているらしい。

 

作者のフェルディナント・フォン・シーラッハは、ドイツ人の人気作家にして敏腕弁護士、その名が示す通り元貴族の御家柄で、祖父はヒトラーユーゲントの指導者だった(第二次大戦後に有罪判決)という人物だそうです・・。

 

紀伊國屋サザンシアターはそれほど大きくない劇場だけど、観客が実際に投票のために席を立ったりするので、丁度いい規模だったのかも。

 

橋爪功は老獪な弁護士、今井朋彦は温和だけど謹厳な裁判官、神野三鈴が正義感あふれる検察官役で、みんなハマリ役でした。

亡くなった乗客の妻役のヒトも非常に上手くて、ダンナさんがいつも通りに出かけて行ったら、片方の靴しか帰ってこなかった・・と、ずっと震えながら話しているのが、ちょっと泣けました。。。

 

 

 

 

 

posted by kuriko | 01:02 | 芝居(番外) | comments(0) | trackbacks(0) |
『子午線の祀り』  (プレビュー公演)

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出演
平知盛       野村萬斎
源義経       成河

平宗盛       河原崎國太郎
梶原景時     今井朋彦

阿波(田口)重能 村田雄浩
影身の内侍   若村麻由美

                ほか

作   木下順二
演出 野村萬斎
音楽 武満徹

 

※2017年7月1日(土) 世田谷パブリックシアターにて。

 

 

というわけで、萬斎さまの「子午線の祀り」を観てきました〜!

 

これが思っていた以上に(笑)素晴らしかったです!平家物語の原文も織り交ぜた格調高い「群読」と、宇宙からの冷厳な視点を組み合わせた戯曲を活かしつつ、さらに立体的な人間ドラマに仕立て直した萬斎さまの意欲作!・・・って、パンフの御挨拶にも全部書いてあったけど・・(笑)。

 

木下順二の脚本や武満徹の音楽をイジッていないところが、当然と言えば当然ながら、日本演劇史に残る宝物を受け継いでいく姿勢を感じさせたのもヨカッタ。

 

ただ冒頭に、黒い現代ふうの衣装姿の登場人物たちが、ステージ上に現れて、そういえばこんなことがあったよね・・・みたいに空を見上げていたのが、まるで「耳なし芳一」みたい(笑)で、でもこれも物語の普遍性を暗示していたように思う。

 

衣装はかなり現代的で簡潔なものに、セットは上下左右に動き回れる、奥行きを感じさせるものになっていました。時には背景に美しい星空。そして特に後半の、壇ノ浦の合戦の場面、海上の布陣がまるで、立体曼荼羅みたいな「風景」を作り出すことに成功していて素晴らしかった。

 

成河の源義経も、今井朋彦の梶原景時(←悪役)も非常によくて、硬軟織り交ぜた台詞の洪水にも違和感の無い、鮮烈な熱演ぶり。成河の義経は、颯爽として特に素晴らしかった。もともと青春ドラマの主人公かのような、オイシイ(笑)役柄ではあるけれど。萬斎知盛も、成河義経も、御曹司で全軍の「大将軍」だけれど、源平それぞれに葛藤と煩悶があり。

 

村田雄浩は、これまで私のイメージ的に、朴訥で不器用な役柄が多かったように思うのだけど、常にハラに一物あるような(←ホントは萬斎知盛に恋しているの・・・☆)、陰翳のある人物を好演していて、こちらも新鮮でした。

 

それら全てを幽霊となって、あるいはお月様となって見守っている影身の内侍。ステージの後方から、ただ黙って、長いあいだ人間たちの諍いを眺めていたそれだけで、若村麻由美がもの言いたげなような、そうでもないような、まさしく雲居の月のような存在感を発揮していて、これも素晴らしいと思ったです・・!

 

萬斎さまはいつもの(?)萬斎節で、安定感があってヨカッタのはよかったけど、『オレの知盛はもう完成してるし』ってカンジだったかな・・。初日だったし、初演のヒトばかりだったから、冒険は避けたのカモ。

ただ、観世榮夫が、萬斎さまのこと、「役を器用に自分に引き寄せ過ぎる」みたいなことを言ってたのをちょっと思い出した・・・。

 

ちなみに、平宗盛とその子の清宗が、なまじカナヅチでないばかりに海で死ぬに死ねないシーンは、大真面目にやればやるほど笑いが起きてしまうところだったのだけど、逆に人間の滑稽さの際立つ場面に仕上げてあって、そこも上手いと思ったです(笑)。

 

地上で、あるいは海上で、そんな卑小な人間ドラマを繰り広げつつ、一門のそれぞれの運命を背負った一戦は、全くそれに関わるところのない、天体の運行が引き起こす海潮の流れによって勝敗が決まる。

 

天子と神器があればそれが日本国だと言っていた阿波民部は、結局平家を裏切って生き延びることを選び、その一部始終を醒めた目で眺めていた知盛は、「見るべき程の事は見つ」と言って、ついには入水する。

 

舞台上で、平家側のほとんどの人物たちが死んでいくのも悲しいけれど、もし最も切ない一点があるとすれば、知盛も義経も、互いに潮の流れが勝敗を決めると知っていて、なおかつそれをどうすることもできない・・・ということだなと思った。

 

人間の意志と、万物の存在そのものとは関係がない。そうした醒めた世界観が、結局「平家物語」にも通じるし、普遍というものなんだろうか。

 

むかしエライ哲学者が、月から見える地球の写真というものを初めて見て、驚愕したという話を思い出した・・・。

 

 

 

posted by kuriko | 02:27 | 芝居(番外) | comments(0) | trackbacks(0) |
マクベス

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原作       ウィリアム・シェイクスピア
翻訳      河合祥一郎

構成・演出 野村萬斎
音楽監修  藤原道山

 

出演
      野村萬斎
      鈴木砂羽
      小林桂太
      高田恵篤 
      福士惠二

 

※2016年6月21日(火) 世田谷パブリックシアターにて。
※ネタバレ含みます。

 

 

というわけで、萬斎さまの!「マクベス」を観てきましたぁ〜!

こ〜れがもう!凄かった!びっくり!

 

ここにきて!四度目の「マクベス」公演で!萬斎マクベスの決定版というか、萬斎能楽の深化形というか、最高の出来映えだったと思う・・!(←上から目線。)

 

同じモチーフに対して(しかも、かなり、出尽くしてる感もある「マクベス」で)、2008年のドラマリーディングから始まってじっくり舞台を育てていくことの出来る萬斎さまって、やっぱりすげぇな、と正直に思ったことでした。興業的にも成功してないと、こういうことってなかなか出来ないものね。

 

舞台の冒頭こそ、かなり削ぎ落とされた展開で進行の速さにも驚いたのですが、「何があったのかは、みんなもう知ってるよね?」と言いたげなところも能楽的だったカモ(笑)。

 

美術のほうも、今回はかなりシンプル。開演時には、世界を覗く窓のようなくり抜かれた円形のオブジェがあり、、その背後に、揚幕と大宮を兼ねたような「作り物」、能舞台を思わせる四角の境界線。そして、その周辺には大きなゴミの山・・・。

 

嵐の中で、そのゴミの中から三人の魔女が生まれてくるのも、実に象徴的です。

 

この魔女たちが、境界を一歩踏み越えた「舞台裏」では『やれやれ・・』という顔をしながら、ダンカンであり、バンクォーであり、マクダフであり・・・を演じ分ける構成も、結局運命から逃れられないマクベスというか、お釈迦様の掌の上の孫悟空というか、大きな存在に対する小さな人間・・を感じさせるものでした。
(しかしこの三人の役者さんたちは、ホントに大変だっただろうな〜。。萬斎さまも勿論、出ずっぱりなんだけど。)

 

萬斎さまは短髪で、ちょっと歌舞伎を思わせる舞台メイクも見事にハマッて、萬斎ファスベンダー!といった雰囲気です。これまでにない精悍さで、かっこいい!演技のほうは、なんて言うのだろう、いい意味で『型にはまった』演技。様式性に表わされた精神。そんな印象です。

 

鈴木砂羽のマクベス夫人は、率直なところ『模範的マクベス夫人』みたいな趣で、クリコ的には、もっと意外性のあるものになるかと思っていたので、ちょっと肩透かし気味だったかな?

 

ただ、今や王と王妃となったマクベスとマクベス夫人が、黄昏の中で語り合うような場面では、豪華な衣装の良さもあって、神話のように美しい場面なのに、悲しいかなその背後には血が流されており、無謬ではいられない人間の夫婦の原型・・を感じさせました。悪者夫婦なのだけど(笑)、深くつながっているマクベス夫妻。

 

マクベスが予言を得ようと、再び魔女に会いにいくところ。円形の窓を覗き込むようにして、狭い地球から広大な宇宙を見ているようでもあったし、自分の心の奥深くを覗き込んでいるようでもあった。

 

「天井桟敷」からやってきた三人の魔女が、全身を激しくばたつかせ、地獄からさらなる悪魔を呼び出すあの描写は、人間が生きているということは、虚無からの幻想を引き出すことでもあるし、生命力というものは、そのまま悪魔的でもあるんだよ・・と、「マクベス」のそんな根本的なメッセージを感じさせる。

 

夫人は死に、イングランドから軍勢が迫り、クライマックスへと向かうにつれて、マクベスの独白がクローズアップされ、その存在がさらに集約され深まっていく・・ところにも能的なものを感じさせました。萬斎節も炸裂です・・!

 

バーナムの森がダンシネインの丘に迫ってくる場面では、猛り狂っているマクベスが、さながら自分自身と闘っているかのようだった。あの天地がひっくり返ってしまうような、大胆なセットの変容も御見事で、本当にびっくりさせられるのだけど、結局、それすらも、自らの手で行っているのは三人の魔女たちなのです。運命という悪意に翻弄されつつ、闘うマクベス。

 

世界と思っていたものが消え去って行き、マクベスの姿も消え、ついには真っ白な無に帰します。自分自身なのか、ただ世界とはそういうものなのか。そこまで考え抜く萬斎さまの非凡と虚無が、十二分に発揮されています・・・!

 

ポール・クローデルの有名な言葉に、「劇とは何事かの到来であり、能とは何者かの到来である」というものがある。

 

ただその芝居を創り上げるだけでは飽き足らず、「マクベス」という人物を掘り下げることで、人生の儚さから、宇宙のありようまで考えさせられる、すごい舞台でした・・・!

 

posted by kuriko | 23:04 | 芝居(番外) | comments(0) | trackbacks(0) |
NINAGAWA・マクベス
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作   W.シェイクスピア
翻訳 小田島雄志
演出 蜷川幸雄

舞台美術 妹尾河童
照明    吉井澄雄
音楽    甲斐正人
効果    本間明
振付    花柳寿楽
衣装    辻村寿三郎

出演
マクベス     市村正親
マクベス夫人 田中裕子
バンクォー    橋本さとし
マルカム    柳楽優弥
ダンカン王   瑳川哲朗
マクダフ    吉田鋼太郎
              ほか

※2015年9月22日(火) シアターコクーンにて。


というわけで行ってきました〜!

NINAGAWA・マクベス、そう、仏壇マクベスに!

うひゃー、本当に仏壇なんだ!と思わせる見事な舞台セット!
満開の桜に、巨大な満月に、絢爛たる障壁画、はては巨大神将像まで・・・。

日本的美意識というより、完成された蜷川様式を感じさせた舞台でした・・。
ステージに振り撒かれた桜の花びらが、役者たちが舞台を駆けまわる度に、はかなく舞いあがるのです・・!

いや〜、スゴかったね!!

文字通りの役者揃いで、市村正親は期待通り、田中裕子のマクベス夫人は本当に素晴らしかったです!あの夢遊病の場面が!美しいほどでした・・。

マクベス夫人は、単に「キツイ人」(笑)だけじゃない色っぽさがあり・・・。
マクベスは王位を簒奪してから、悔い悩む愚痴っぽさがあり・・。
市村マクベスはやっぱり〜・・追い詰められてからがいいですねぃ〜!凄みと人情がありました!

こういうキャリアの長い役者たちだと、どう演じるかというより、どう生きるかって感じなのかな・・。

吉田鋼太郎の鬼滑舌(笑)や、柳楽優弥も上手くてびっくり!
マルカム恒例の、堂々の※※、いや純潔宣言です!

仏壇の中に入っているので、観客はより鳥瞰的に観ている気になるとでもいうか・・。
格調高い時代劇映画や、壮大な歴史ドラマを見守っているような気分でした。(だけど、有名すぎるその結末を、誰もが知っている・・)

手に手を取り合って、悪事へとひた走るマクベス夫妻がなんだか愛おしい(違?)。満開の桜のもとで繰り広げられる、儚い人間の営み・・。
一瞬栄えては、すぐに消えていくマクベス・・・。夫妻の衣装もお揃いの桜尽くしで、マクベス夫人が自死してからは、夫人の打掛を身にまとうマクベスが耽美です・・!バーナムの森までが、なんと桜なのですよ・・!

最後にマクベスが、赤ちゃんのように体を丸めて死んでいくところ・・。従来の演出通りなのかもしれないけど、なんだか蜷川幸雄の、人間への愛情さえ感じてしまいました・・。

野村萬斎版もとっても素晴らしかったけど、こちらはもう、本家本元(笑)の風格さえ感じられました。冷静に考えると、蜷川版も美術や衣装を除くと、何かが決定的に日本的というわけでもなく、ただ普遍的というのが、シェイクスピアの凄さなのかも?あえて言うなら、随所に流される声明や鐘の音や聖歌に込められた永遠性と、儚い人間性との対比に、平家物語的な無常観を感じさせました。

それにいつも思うんだけど、シェイクスピアって演じてる役者さんたちが一番楽しいんじゃないかな〜?

今さら言ってもしょうがないけど、平幹二朗マクベス版も観てみた〜い!




 
posted by kuriko | 23:34 | 芝居(番外) | comments(0) | trackbacks(0) |
『敦―山月記・名人伝―』 (2回目)
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原作      中島敦
構成・演出 野村萬斎
 
出演  野村万作
    野村萬斎
    石田幸雄
    深田博治
    高野和憲
    月崎晴夫

大鼓  亀井広忠
尺八  藤原道山

※2015年6月17日(水) 世田谷パブリックシアターにて。


というわけで、二回目に行ってきました〜!補助席をギリギリゲットです!
そしてそして、やっぱり行ってよかった。プレビュー初日よりもこちらのほうが、さらに素晴らしかったです!

「能楽の技法を取り入れた現代劇」として既に世評も高い「敦」に、こゆこと言うのって、かなり今更感もあるけど、「敦」って、「狂言」よりも「能」だとクリコは思う。狂言方と囃子方によって演じられる(能楽自体に常にどちらも居るわけですが)、かなり大胆な試みという気がします。(プロジェクションマッピングつきの「乱拍子」も大胆ですが。。)

冒頭に中島敦の遺影が舞台に掲げられ、彼の位牌までがそこにある。(初演の時は、万作が舞台に死体役で横たわっていた。)そこに、ゆらゆら・・・と、今まさしく肉体から抜け出たかのように、敦・萬斎が登場します。

主役である「その人」が死んだところから、舞台が始まる。(狂言の場合は、もっと「現世・今・現在」に全力!という曲が多いと思う。)

そして「敦」その人が、舞台いっぱいに偏在するかのように分裂して(敦たち)、時に客観的に、時にドッペルゲンガー的に、敦であり、李徴であり、紀昌である人を語り出す・・。主客がくるくると転倒するような台詞廻しが、これまた「能」的だなぁと(←まぁ萬斎さまも解説で書いてるのですが。。)。それに三日月形の橋掛かり。情況のBGMだけでなく、役者の声、天の声、地の声として舞台に登場する囃子。

今回の公演では特に萬斎さまが敦自身と、李徴・紀昌の二役もされたので、「シテ」として、より能的な舞台の完成度も高まっていた気がする。

「劇、それは何事かの到来であり、能、 それは何者かの到来である」 とは、クローデルの有名すぎる評言ですが、もし「敦」が現代の能だとして、その「何者か」自体を一曲を通して問わねばならない・・、あるいは問おうとしている。というのは、皮肉といえば皮肉なことなのかもしれません。もちろん「劇」として、虎になって兎を食べちゃったり、詩を作ったり、弓矢の修行をしたりと、色々と「何事か」もあるけれど、それ自体も敦が自分自身の過去を回顧したり、観照したりするための「エピソード」でもあるわけだし。

萬斎さまの李徴の演技は、尊大でヒステリックな側面が目立ったプレビュー初日からさらに深化して、より細やかなものになっていました。マトモに人間として出世している袁傪に対する微妙な嫉妬心、妻子が飢え凍えることのないように、温情をかけてやってほしいと哀願する様子など、より人間的な心の揺れが伝わってくる。

そして何よりも、李徴自身の心の弱さ、脆さ・・が分かって、なんだか『愛される李徴子』になってました。。「ううう〜・・」と泣き声を漏らすあの姿が・・・。もちろん久々のヴィジュアル系(笑)・萬斎と、ワザ的な、アクションのキレも素晴らしかったです!

これに対比される存在として、今や万作家を支える幸雄の超盤石演技も秀逸。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」の台詞が泣かせます。

(←ちなみに言うと、李徴も袁傪も科挙に受かってるってことは、鍾馗様以上の秀才ってことなのかしらね・・?)

「名人伝」では、万作の甘蠅役にも微妙に変化が感じられて、プレビュー初日での超然とした仙人の姿から、いくらか万之介的な、可笑しみの感じられる名人の姿になっていました。

80歳もとうに過ぎて、それでもまだ、途中からでも「変えることができる」という万作に、さすがと感銘を受けたことでした。やっぱしプレビュー初日は、萬斎さまも万作も、肩に力が入ってたのかな?

そして道を究め尽くして終える、老紀昌役を万作が演じていたことで、自分の人生を問いかける「敦」のテーマが、いっそう明確になっていた気がしたのでした。。

あ〜、ほんとにほんとに素晴らしかった。。。

あ、ちなみに、あれだけの台詞量の連日興業はやっぱり相当なハードワークみたいで、この日は深タンの声が掠れてしまっていて、あ〜萬斎さまに絶対怒られたな、これは・・・という感じでした。。。

「敦」の東京公演はもう終わっちゃったけど、兵庫か長野まで行けば、トラ男くんにまた会える・・・と、「ぴあ」の画面を真剣に眺めてる自分がコワイ・・・。(←うそ、うそ!行きませんけども。。)




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posted by kuriko | 00:55 | 芝居(番外) | comments(2) | trackbacks(0) |
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