能楽鑑賞などなどの記録。  
マクベス

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原作       ウィリアム・シェイクスピア
翻訳      河合祥一郎

構成・演出 野村萬斎
音楽監修  藤原道山

 

出演
      野村萬斎
      鈴木砂羽
      小林桂太
      高田恵篤 
      福士惠二

 

※2016年6月21日(火) 世田谷パブリックシアターにて。
※ネタバレ含みます。

 

 

というわけで、萬斎さまの!「マクベス」を観てきましたぁ〜!

こ〜れがもう!凄かった!びっくり!

 

ここにきて!四度目の「マクベス」公演で!萬斎マクベスの決定版というか、萬斎能楽の深化形というか、最高の出来映えだったと思う・・!(←上から目線。)

 

同じモチーフに対して(しかも、かなり、出尽くしてる感もある「マクベス」で)、2008年のドラマリーディングから始まってじっくり舞台を育てていくことの出来る萬斎さまって、やっぱりすげぇな、と正直に思ったことでした。興業的にも成功してないと、こういうことってなかなか出来ないものね。

 

舞台の冒頭こそ、かなり削ぎ落とされた展開で進行の速さにも驚いたのですが、「何があったのかは、みんなもう知ってるよね?」と言いたげなところも能楽的だったカモ(笑)。

 

美術のほうも、今回はかなりシンプル。開演時には、世界を覗く窓のようなくり抜かれた円形のオブジェがあり、、その背後に、揚幕と大宮を兼ねたような「作り物」、能舞台を思わせる四角の境界線。そして、その周辺には大きなゴミの山・・・。

 

嵐の中で、そのゴミの中から三人の魔女が生まれてくるのも、実に象徴的です。

 

この魔女たちが、境界を一歩踏み越えた「舞台裏」では『やれやれ・・』という顔をしながら、ダンカンであり、バンクォーであり、マクダフであり・・・を演じ分ける構成も、結局運命から逃れられないマクベスというか、お釈迦様の掌の上の孫悟空というか、大きな存在に対する小さな人間・・を感じさせるものでした。
(しかしこの三人の役者さんたちは、ホントに大変だっただろうな〜。。萬斎さまも勿論、出ずっぱりなんだけど。)

 

萬斎さまは短髪で、ちょっと歌舞伎を思わせる舞台メイクも見事にハマッて、萬斎ファスベンダー!といった雰囲気です。これまでにない精悍さで、かっこいい!演技のほうは、なんて言うのだろう、いい意味で『型にはまった』演技。様式性に表わされた精神。そんな印象です。

 

鈴木砂羽のマクベス夫人は、率直なところ『模範的マクベス夫人』みたいな趣で、クリコ的には、もっと意外性のあるものになるかと思っていたので、ちょっと肩透かし気味だったかな?

 

ただ、今や王と王妃となったマクベスとマクベス夫人が、黄昏の中で語り合うような場面では、豪華な衣装の良さもあって、神話のように美しい場面なのに、悲しいかなその背後には血が流されており、無謬ではいられない人間の夫婦の原型・・を感じさせました。悪者夫婦なのだけど(笑)、深くつながっているマクベス夫妻。

 

マクベスが予言を得ようと、再び魔女に会いにいくところ。円形の窓を覗き込むようにして、狭い地球から広大な宇宙を見ているようでもあったし、自分の心の奥深くを覗き込んでいるようでもあった。

 

「天井桟敷」からやってきた三人の魔女が、全身を激しくばたつかせ、地獄からさらなる悪魔を呼び出すあの描写は、人間が生きているということは、虚無からの幻想を引き出すことでもあるし、生命力というものは、そのまま悪魔的でもあるんだよ・・と、「マクベス」のそんな根本的なメッセージを感じさせる。

 

夫人は死に、イングランドから軍勢が迫り、クライマックスへと向かうにつれて、マクベスの独白がクローズアップされ、その存在がさらに集約され深まっていく・・ところにも能的なものを感じさせました。萬斎節も炸裂です・・!

 

バーナムの森がダンシネインの丘に迫ってくる場面では、猛り狂っているマクベスが、さながら自分自身と闘っているかのようだった。あの天地がひっくり返ってしまうような、大胆なセットの変容も御見事で、本当にびっくりさせられるのだけど、結局、それすらも、自らの手で行っているのは三人の魔女たちなのです。運命という悪意に翻弄されつつ、闘うマクベス。

 

世界と思っていたものが消え去って行き、マクベスの姿も消え、ついには真っ白な無に帰します。自分自身なのか、ただ世界とはそういうものなのか。そこまで考え抜く萬斎さまの非凡と虚無が、十二分に発揮されています・・・!

 

ポール・クローデルの有名な言葉に、「劇とは何事かの到来であり、能とは何者かの到来である」というものがある。

 

ただその芝居を創り上げるだけでは飽き足らず、「マクベス」という人物を掘り下げることで、人生の儚さから、宇宙のありようまで考えさせられる、すごい舞台でした・・・!

 

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NINAGAWA・マクベス
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作   W.シェイクスピア
翻訳 小田島雄志
演出 蜷川幸雄

舞台美術 妹尾河童
照明    吉井澄雄
音楽    甲斐正人
効果    本間明
振付    花柳寿楽
衣装    辻村寿三郎

出演
マクベス     市村正親
マクベス夫人 田中裕子
バンクォー    橋本さとし
マルカム    柳楽優弥
ダンカン王   瑳川哲朗
マクダフ    吉田鋼太郎
              ほか

※2015年9月22日(火) シアターコクーンにて。


というわけで行ってきました〜!

NINAGAWA・マクベス、そう、仏壇マクベスに!

うひゃー、本当に仏壇なんだ!と思わせる見事な舞台セット!
満開の桜に、巨大な満月に、絢爛たる障壁画、はては巨大神将像まで・・・。

日本的美意識というより、完成された蜷川様式を感じさせた舞台でした・・。
ステージに振り撒かれた桜の花びらが、役者たちが舞台を駆けまわる度に、はかなく舞いあがるのです・・!

いや〜、スゴかったね!!

文字通りの役者揃いで、市村正親は期待通り、田中裕子のマクベス夫人は本当に素晴らしかったです!あの夢遊病の場面が!美しいほどでした・・。

マクベス夫人は、単に「キツイ人」(笑)だけじゃない色っぽさがあり・・・。
マクベスは王位を簒奪してから、悔い悩む愚痴っぽさがあり・・。
市村マクベスはやっぱり〜・・追い詰められてからがいいですねぃ〜!凄みと人情がありました!

こういうキャリアの長い役者たちだと、どう演じるかというより、どう生きるかって感じなのかな・・。

吉田鋼太郎の鬼滑舌(笑)や、柳楽優弥も上手くてびっくり!
マルカム恒例の、堂々の※※、いや純潔宣言です!

仏壇の中に入っているので、観客はより鳥瞰的に観ている気になるとでもいうか・・。
格調高い時代劇映画や、壮大な歴史ドラマを見守っているような気分でした。(だけど、有名すぎるその結末を、誰もが知っている・・)

手に手を取り合って、悪事へとひた走るマクベス夫妻がなんだか愛おしい(違?)。満開の桜のもとで繰り広げられる、儚い人間の営み・・。
一瞬栄えては、すぐに消えていくマクベス・・・。夫妻の衣装もお揃いの桜尽くしで、マクベス夫人が自死してからは、夫人の打掛を身にまとうマクベスが耽美です・・!バーナムの森までが、なんと桜なのですよ・・!

最後にマクベスが、赤ちゃんのように体を丸めて死んでいくところ・・。従来の演出通りなのかもしれないけど、なんだか蜷川幸雄の、人間への愛情さえ感じてしまいました・・。

野村萬斎版もとっても素晴らしかったけど、こちらはもう、本家本元(笑)の風格さえ感じられました。冷静に考えると、蜷川版も美術や衣装を除くと、何かが決定的に日本的というわけでもなく、ただ普遍的というのが、シェイクスピアの凄さなのかも?あえて言うなら、随所に流される声明や鐘の音や聖歌に込められた永遠性と、儚い人間性との対比に、平家物語的な無常観を感じさせました。

それにいつも思うんだけど、シェイクスピアって演じてる役者さんたちが一番楽しいんじゃないかな〜?

今さら言ってもしょうがないけど、平幹二朗マクベス版も観てみた〜い!




 
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『敦―山月記・名人伝―』 (2回目)
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原作      中島敦
構成・演出 野村萬斎
 
出演  野村万作
    野村萬斎
    石田幸雄
    深田博治
    高野和憲
    月崎晴夫

大鼓  亀井広忠
尺八  藤原道山

※2015年6月17日(水) 世田谷パブリックシアターにて。


というわけで、二回目に行ってきました〜!補助席をギリギリゲットです!
そしてそして、やっぱり行ってよかった。プレビュー初日よりもこちらのほうが、さらに素晴らしかったです!

「能楽の技法を取り入れた現代劇」として既に世評も高い「敦」に、こゆこと言うのって、かなり今更感もあるけど、「敦」って、「狂言」よりも「能」だとクリコは思う。狂言方と囃子方によって演じられる(能楽自体に常にどちらも居るわけですが)、かなり大胆な試みという気がします。(プロジェクションマッピングつきの「乱拍子」も大胆ですが。。)

冒頭に中島敦の遺影が舞台に掲げられ、彼の位牌までがそこにある。(初演の時は、万作が舞台に死体役で横たわっていた。)そこに、ゆらゆら・・・と、今まさしく肉体から抜け出たかのように、敦・萬斎が登場します。

主役である「その人」が死んだところから、舞台が始まる。(狂言の場合は、もっと「現世・今・現在」に全力!という曲が多いと思う。)

そして「敦」その人が、舞台いっぱいに偏在するかのように分裂して(敦たち)、時に客観的に、時にドッペルゲンガー的に、敦であり、李徴であり、紀昌である人を語り出す・・。主客がくるくると転倒するような台詞廻しが、これまた「能」的だなぁと(←まぁ萬斎さまも解説で書いてるのですが。。)。それに三日月形の橋掛かり。情況のBGMだけでなく、役者の声、天の声、地の声として舞台に登場する囃子。

今回の公演では特に萬斎さまが敦自身と、李徴・紀昌の二役もされたので、「シテ」として、より能的な舞台の完成度も高まっていた気がする。

「劇、それは何事かの到来であり、能、 それは何者かの到来である」 とは、クローデルの有名すぎる評言ですが、もし「敦」が現代の能だとして、その「何者か」自体を一曲を通して問わねばならない・・、あるいは問おうとしている。というのは、皮肉といえば皮肉なことなのかもしれません。もちろん「劇」として、虎になって兎を食べちゃったり、詩を作ったり、弓矢の修行をしたりと、色々と「何事か」もあるけれど、それ自体も敦が自分自身の過去を回顧したり、観照したりするための「エピソード」でもあるわけだし。

萬斎さまの李徴の演技は、尊大でヒステリックな側面が目立ったプレビュー初日からさらに深化して、より細やかなものになっていました。マトモに人間として出世している袁傪に対する微妙な嫉妬心、妻子が飢え凍えることのないように、温情をかけてやってほしいと哀願する様子など、より人間的な心の揺れが伝わってくる。

そして何よりも、李徴自身の心の弱さ、脆さ・・が分かって、なんだか『愛される李徴子』になってました。。「ううう〜・・」と泣き声を漏らすあの姿が・・・。もちろん久々のヴィジュアル系(笑)・萬斎と、ワザ的な、アクションのキレも素晴らしかったです!

これに対比される存在として、今や万作家を支える幸雄の超盤石演技も秀逸。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」の台詞が泣かせます。

(←ちなみに言うと、李徴も袁傪も科挙に受かってるってことは、鍾馗様以上の秀才ってことなのかしらね・・?)

「名人伝」では、万作の甘蠅役にも微妙に変化が感じられて、プレビュー初日での超然とした仙人の姿から、いくらか万之介的な、可笑しみの感じられる名人の姿になっていました。

80歳もとうに過ぎて、それでもまだ、途中からでも「変えることができる」という万作に、さすがと感銘を受けたことでした。やっぱしプレビュー初日は、萬斎さまも万作も、肩に力が入ってたのかな?

そして道を究め尽くして終える、老紀昌役を万作が演じていたことで、自分の人生を問いかける「敦」のテーマが、いっそう明確になっていた気がしたのでした。。

あ〜、ほんとにほんとに素晴らしかった。。。

あ、ちなみに、あれだけの台詞量の連日興業はやっぱり相当なハードワークみたいで、この日は深タンの声が掠れてしまっていて、あ〜萬斎さまに絶対怒られたな、これは・・・という感じでした。。。

「敦」の東京公演はもう終わっちゃったけど、兵庫か長野まで行けば、トラ男くんにまた会える・・・と、「ぴあ」の画面を真剣に眺めてる自分がコワイ・・・。(←うそ、うそ!行きませんけども。。)




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『敦―山月記・名人伝―』
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原作       中島敦
構成・演出 野村萬斎
 
出演    野村万作
       野村萬斎
       石田幸雄
       深田博治
       高野和憲
       月崎晴夫

大鼓   亀井広忠
尺八   藤原道山

※2015年6月13日(土) 世田谷パブリックシアターにて。
※プレビュー公演です。
※ネタバレ(?)含みます。


というわけで、萬斎さまの『敦』を観てきました〜〜!

いやこれが、感動しました!

すっごーくよっかた、間違えた、スゴーク良かったです!!

なんていうか、やっぱし、「敦」は萬斎演出・出演作品の中でも、最高傑作の一つだとクリコも思う。「藪原検校」でさえ、わりと既視感あったのですが、「敦」は全然違ってました。

開演時、ステージに巨大な中島敦の遺影が出現し、位牌まで置いてある・・のは10年前と同じ(だったかな)。三日月型の「台」があるステージの構造も同じだったのですが、あの三日月はなんと、販売のパンフレットによると、橋掛かりだったのですね!三日月形の動く橋掛かりです!

敦の霊(←萬斎さま)が登場して、次々と、分裂して「敦たち」もステージに現れます。7・3分けの髪型に黒縁メガネ。鼠色のお揃いのスーツ姿・・・。ひと昔前の日本なら、どこにでもあった光景でしょうか。似たような自分と他者。「アイデンティティ」という話を考えると、ニヤリとさせられる姿です。

そこから「山月記」の世界が語られるのですが、今回の見所(みどころ)はなんと言っても、萬斎さまが李徴役!ということで、萬斎さまの虎姿は〜・・・美しかったです!

もースゴイの、ロン毛に舞台用ハードメイクが炸裂して、そしてあの身体能力!ぴよんっ!と軽々と跳び出して来る姿勢に、全く揺らぎがありません・・!ダンサーのように、もちろん狂言方のように(笑)美しい躍動ぶり。

発狂して虎と変じるシーンでは、広忠が大鼓で!「道成寺」の乱拍子を打っていました・・・!

白拍子が釣鐘の中で蛇身に変じる代わりに、白い袍服姿の萬斎さまは・・・、真鍋大度のプロジェクションマッピングです!

李徴の全身の細胞が、狂気した精神のために入れ替わっていく有り様・・・が、ある意味、電子レベル(?)で表現されています・・・!!メタモルフォーシスです・・!

この「乱拍子」には、本当に衝撃を受けました。

萬斎さまは、そして「敦」という作品は、やっぱり現代能楽の一つの到達点なのだなぁと、つくづく思ったことでした。

別に、真鍋大度とコラボしたから最先端なのかよ。というわけでもありません。Perfumeだって、もうやってるわけだし。

自分とは何者か。何のために生まれてきたのか。『敦』に一貫したメインテーマは、人間にとって普遍的な問い・・・でありつつ、能楽の世界からはけっこう遠い問いでもあると思うのですよ。これまで存在しなかった新たな問いを発見して、能楽の囃子、乱拍子という超アナログ(伝統芸能的)手段と、その対極にあるイ、インタラクティブ?的な、流動し変化し続けることを前提としたデジタル手段の両方で、しかも現代人として呼吸しつつ体現しきった・・・というところが、とにかくカッコいいというか・・・。変化し続ける。という点では、ただそのスパンが違うだけで、実はどちらも同じカモしれないけどネ。
(←東京オリンピックの開会式は、もう萬斎さまでキマリじゃね?←萬斎推し。)

そして李徴その人の演技も、万作のものとは全く違うのですよ。やっぱり現代人なので(←?)不安、焦燥、ヒステリー・・・その全てを隠さない、むしろ極限に押し出すような、現代劇としての表現なのです。

中島敦の格調高い漢文調に込められた、うらはらな狂気や熱情が、くっきりと際立つような演技。ものすごく単純化して言えば、静の万作に対して、動の萬斎さまです。

そして広忠(と道山)の、役者としての囃子っぷりも素晴らしかった・・・!背景としてのBGMではなくて、まさしく「出現」していました・・!乱拍子はもちろん、虎身となった李徴の咆哮、その声、その音が舞台を生きる・・・!(←コーフン気味。)

昨年の「広忠の会」のとき、広忠ってホントに萬斎さまのこと愛してるんだなぁと思ったけど(←え、違?)、萬斎さまも広忠のことを愛してて、二人はつくづく愛し合っているのだな〜と・・・(←え。ますます違?)。。これぞホントのLoveLoveでありましょう。

・・・なんていう冗談はさておき(あ、二人のLoveについてのみが冗談部分ね)、つづいて「名人伝」。

こちらは引き続き萬斎さまが紀昌役だったのですが、余計な力が抜けて、『こなれ感』がいいカンジでした。

萬斎さまは、こういう飄々とした役もいいのですよね。李徴役は、大々的に『父を超えたい』宣言してただけに?!違いを出そうとやっぱり力が入ってたのかなぁ〜と。

そして万之介から甘蠅役を引き継いだ万作が現れると、やっぱり『万作キター!!』ってなっちゃう。ステージに姿を現す直前の、万作自身の影に漂う緊張感がハンパない。

しかし舞台の上では恬淡と枯れきった風情で、甘蠅がどんなスゴイ技を観せるのか・・?!と期待させておいて、あくまでごく軽く、静かな声で「ひょう、ふつ・・・」と、目に見えない矢を放つ万作・・。が、しかし、胡麻粒ほどの小ささに見える、遠くに飛んでいた鳶が、しっかり落ちてくるのです・・!

甘蠅(万作)はそのまま「老紀昌」にもなって、弓道を極めたその生涯を、静かに終えます。道を究めきり、ただボンヤリと、あるかなきかの表情で座っている姿が印象的で、万作その人の姿にも重なる・・・。

(紀昌であり、甘蠅であり、万作が演ずるところの)息を引き取った老いた自分に向かって、敦・萬斎が「自分は一体、何のために生まれてきたのか・・」と、あくまで同じ、一貫した問いを掲げる。万作、萬斎さまの「父子鷹」ぶりを知っていると感慨深い場面でもありますが、でも万作は案外、「え・・別に、何も考えてない・・」と答えるカモね。

万作も、きっと同じ疑問に、一度は突き当たったと思う。・・けど、そこを突き抜けた時にあるのは、ただ「老い」なのでしょうか・・。

万作が登場してからは、萬斎さまがしっかり、万作のほうを終始目配り・・していたのも印象的でした。

そしてカーテンコールで役者たちが勢ぞろいすると、囃子方も含めてたった8人の役者でこれだけの重厚な物語が表現されていたのかと、何だかビックリ。。。

今回の販売パンフレットには、なんと「敦」の台本が全て掲載されていて、萬斎さまはやりたいヒトはやってみて的な(笑)、余裕のコメントでした。う〜ん、しかし、なまじなアレンジでは大怪我しそう。。。今度は再び(?)、現在のシテ方がやると面白いカモね。。。

実は今回のプレビュー公演で大感動したので、も〜う一回観に行く予定です。完売スレスレで、げっとです。ふぅ〜。。。
しかも前回版のDVDまで購入してしまいますた。。。これ見て、研究してから行こう〜っと☆






 
posted by kuriko | 22:48 | 芝居(番外) | comments(0) | trackbacks(0) |
「藪原検校」
原作  井上ひさし
演出  栗山民也
出演  野村萬斎
     中越典子
     辻萬長
     大鷹明良
     山西惇
ギター  千葉伸彦

※2015年3月7日(土) 世田谷パブリックシアターにて。


というわけで、『藪原検校』を観てきました〜!
萬斎さまが、相変わらずスゴかったです・・!

それになんていうのだろう、クオリティ志向?!みたいなものを感じさせて、面白かった。ナルホド、古典になるとはこういうことなのか・・・という発見をした気分。長期公演の、ちょうど真ん中あたりで観たので、余計そう思ったのかもしれません。

名作と呼ばれる脚本を、安定のカンパニーで、安定の演技で、安心感(?)をもって観るピカレスクロマン・・・。
別に皮肉な意味ではありません。歌舞伎やシェイクスピアと同じで、役者の違いによって、こうまで印象が違うのかと(当然過ぎることに)感心したり。

きっと脚本に込められていた筈の、生々しい人間の業だとか、本人にはどうしようもない因果だとか、そういうものが、洗練の過程で美化されていたような気もしたり。
(「弱法師」(≒俊徳丸)みたいなものでしょうか。観ている側、演じている側の、価値観の変化も影響していると思う。)

萬斎さま(=杉の市)は販売されていたパンフレットに、50年近く生きてきた、これまでの自分なりの人生観を杉の市の28年の人生に詰め込みたい・・・みたいなコメントをしていたけれど、もう完全に、『手の内に』しちゃってるマリ役となっていました。

初めて観たときは、わ〜!わ〜!萬斎さまが、あんなことや!こんなことを!と、いちいち驚いていたけど、そして「早物語」の場面では、こ、こ、こんなすごい歌唱は、野村萬斎にしかできない・・・!と感心していたけど(萬斎さまって、ほんとなにげに「歌」が上手い)、そしてそれは今回も同じだけど、舞台劇に狂言師の技術や身体を活かして、みたいな段階は、萬斎さまはもうとっくに過ぎてしまっていているのカモね。すべてが違和感なく融合した、one&onlyの境地。萬斎さまに、狂言師とか俳優だとかのレッテル分けはもはや不要かもしれません。

冒頭に目の見えない人たちの集団が出てくるのですが、そこに萬斎さまも御顔を隠して紛れ込んでいて、だけどやっぱり、分かっちゃうのです。動きが!存在感が!強すぎて!

「早物語」、今回のラストは黄金色の(笑)マントを身にまとって、でもそれが何故かキレキレでカッコよく(笑)、ちょっとソフトな表現になっていました(笑)。もちろん萬斎版「早物語」のあとは、劇場の観客も思わず劇中の人となって、思わず拍手が巻き起こるのです・・・!

(だけどモノマネ芸部分の難しいところは、真似られているオリジナルを知らないと、どこが面白いのか分からない・・・ってところカモ。だんだん森進一って誰?とかってなってくのかな〜。ワンオク(ボーカル)のお父さんだよ!みんな!)

そして杉の市が悪事の階段を駆け上っていく毎に、さらにイキイキとして、とても目が見えないようには観えなくなってくるのだけど、これは決して善人ばかりでは無い晴眼者にも伍して闘う杉の市・・・ということなのでしょう。

第一、第二の殺人は、いわば過失致死だったけれど、第三、第四になってくると、もはや感覚が麻痺してくる。杉の市自身もラストには、カーニバルの生贄として、観るからに異形の怪物として殺されてしまうのだけど・・・。

あれをプリンセス・テンコーばりのイリュージョンで、ナマの萬斎さまがぶら下がったらスゴイな、なんて思ってた私の感覚のほうが、きっとマヒしてたんだな。。。

中越典子は、『エロスの象徴』というには美しすぎたかも。。。旦那さんも杉の市も、目が見えないので実はそこはカンケーないのだけど、秋山菜津子版にあった情のコワイ悪女の雰囲気は和らいで、むしろ聖女的な輝きを感じさせました。結局は「お市」の出現によって、藪原検校の悪事が露見するというのも象徴的です。

「保己市」は、率直な印象として、やっぱり小日向文世のほうがいいな。純粋さと残酷さを感じさせて、杉の市のライバルにふさわしい存在感だったけれど、辻萬長のほうは生真面目な頭の固い人の印象で、杉の市の影に隠れてしまいそう。保己市のほうが、実は杉の市を羨んでいそうな気がした。

それにしても、いつものことながらあの膨大な台詞量を、少数の役者があれだけクルクルと役柄を入れ替え、しかもちゃんと役になりきっている役者陣には感心しました。やっぱりナマナマしさとパワーが違うのですよね。

ただちょっと、女優さんが何故か微妙にナマ歌じゃなかったりとか、幽霊ぽく出るのに音声にエフェクターかけたりとか。。。商業演劇の世界では、もうそんなの常識なのかもしれないけど?!、能好きとしては、ちょっと違和感。。。

あ、それと、終盤に萬斎さまの羽二重の、首のあたりがピラピラしだして、さすがにちょっと気になったです(笑)。メイクさ〜ん。。。

あ、ちなみに田中★★や、古★新★も観に来てましたおー。(←こっちは蜷川版ですね。)




 
posted by kuriko | 22:14 | 芝居(番外) | comments(0) | trackbacks(0) |
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