能楽鑑賞などなどの記録。  
上村松園「青眉抄」
いつ撮ったかな・・・

狂人を見るのでしたら岩倉村へゆけばよいでしょうと、ある人がわたくしに教えてくれた。
京都の北の山奥岩倉村にある狂人病院は、関西のこの種の病院では一流である。狂人病院の一流というのは妙な言い方であるが、とにかく、岩倉の病院といえば有名なもので、東京では松沢病院、京都では岩倉病院と較び称される病院なのである。
岩倉へゆけば、狂人が見られるには違いないが、照日前のモデルになるようなお誂えむきの美狂人がいるかどうか―と案じていると、
「某家の令嬢で、あすこに静養している美しい方がモデルにふさわしいと思うが」
と、教えてくれる人もあったので、わたくしは幾日かを狂人相手に暮すべく、ある日岩倉村へ出かけて行った。
(本文「花筐と岩倉村」より)


クリコの手元にあるこの本自体は、新装版として1984年に出版されています。
初版は1943年とのこと。今では、青空文庫で結構読めるみたいです。

クリコも上村松園がわりと好きで、何ていうかごく普通に、ちょっと解説書とか読んでみたり、美術館でたまに眺める程度に好きである。

今年の秋にある観世喜正の会のチラシに、松園の「花がたみ」が使われているのを見て、ふと引用の文面を思い出したのでした。

松園が、謡曲を題材として何点か描いていることは有名で、これまた有名な話だけれど金剛巌の素人弟子として、お能のお稽古をしていたそうな。
彼女の『能楽観』は、現代人のクリコからみるとちょっと古風で面白い。

上品・清澄な理想?世界の美人画が最大の特色らしいのだけど、基礎の写生はもちろん、松園は画題に関して徹底的に研究する人で、引用のエッセイでも、実際に岩倉村まで行ったことが「根底の参考」になったと語っておられます。

ちなみクリコは松園作品では、「舞支度」「草紙洗小町」「母子」「蛍」あたりが好き。

そいだけ。
posted by kuriko | 23:03 | 読書(能・狂言) | comments(2) | trackbacks(0) |
夏のめぐろ ろうそく能
パーシモンホール
解説   金子直樹

舞囃子
頼政
     井上燎治

狂言  
船渡聟
シテ   野村万作
アド   高野和憲
      石田幸雄


羽衣 和合之舞
シテ   梅若六郎
ワキ   宝生閑
ワキツレ 大日方寛
      野口能弘

大鼓   亀井広忠
小鼓   大倉源次郎
笛     松田弘之
太鼓   小寺真佐人



あ〜っつ〜い〜ですね!


あつーい。ほんとに暑いなぁー。


どうしてこんなに毎日暑いのだろう?


え?読んでるほうが暑い?

そ〜ですか。すみません。


夏になって暑くなってくると、能楽師たちはみんな山から薪を切り出してきて、それを広場で燃やすために出払ってしまう。能楽堂の予定も空白だらけ。
でもクリコ。薪能はあんまし、それほど、好きくない。
ちっさいムシが飛んでたりとか。夜空にヘリコプターが飛んでたりとかサ。

そこでのんびりと、近場のホールに出かけることにしました。
エアコンも効いてるしね。(←軟弱。しかもこれが後に、大誤算になるのであった。)

会場は「めぐろパーシモンホール」というところだったのだけど、ホールの前に芝生の広場などもあって、絵に描いたような平和な風景。
平和な風景

ちなみに、何故persimmonなのかというと、目黒区柿の木坂にあるからなんだって(fromホームページ)。・・・。ふーん。

とにかく、キンキンとよく冷えたホールでございました。
フフフ、こんなこともあろうかと思って、ちゃんと冬物のストールも持参していたのだけど、それでも足りずに、大人気だった貸し出しブランケットを借りたクリコなのであった。いくらなんでも寒すぎる。
あ、でも座席にすごく段差がつけられていて、とても観やすいホールでした。音響もすごくよくて、大小の鼓の音がくっきり聴こえる。
きっと夏は寒い、冬は暑いでホールの空調はモンクが多くて大変だろうけど、ここは一つ、プロ意識を見せていただきたい!(セロニアス・モンク・・・。しょーもな。。。)

舞囃子は頼政。一応蝋燭能ということで(電飾だったけど)、ホール全体の照明が落とされて、ステージの照明も控えめに。この井上燎治というヒトが主催だったみたいだけど、気持ちは分かるけど(←?)、ホール能の舞囃子で頼政というのはいささか、若干、退屈なのではあるまいか。・・・と思っていたのは多分クリコだけで、目黒じゅうから上品な奥さまたちが集結している感じだったので、皆様、大変楽しまれた様子でございました(多分)。

続いて、万作の船渡聟。ちなみにこの時になって、あ、萬斎さまの出演はないのかと、気づいたクリコなのでした。万作が可愛かったからいいけど。
幸雄が奥さんで、高野和憲がおムコさん。幸雄の奥さん役は、萬斎さまの「敦」(特に名人伝)以来、結構ツボなので楽しかったです。

続いて、羽衣。

閑白龍が羽衣を発見したのに続いて、六郎天人が登場。
何故か(←皮肉です。スミマセン)、登場から薄ーい舞衣ふうの上着をすでに着けていて、赤い長袴でした。
(白龍に羽衣を返してもらうと、ちゃんと長絹に着替えていました。)
ものすごく恥ずかしがりやの天女で、水浴びのときも、ちゃんと水着を着ていたのかもしれない。
しかし長袴で羽衣だと、どうしてものそのそ動いて観えるので、あんまり、それほど、合ってないと思うんだけどな。。。
というわけで、あんまり羽衣を観た!という気がしないのだけど、皆さん大変な拍手で、案外、お能っていうのはこういうものだよ。と悟っておられるのかもしれないなと、思ったことでした。

おしまい。


posted by kuriko | 00:00 | 能・狂言 | comments(2) | trackbacks(0) |
出ましたね〜!

白洲次郎役は、伊勢谷友介かぁ〜。
クリコ的には、ちょと、微妙かも・・・。
まぁ誰でもいいけど。。。

中谷美紀の演能シーンは、とっても楽しみ!

→関連:7月26日

あれ、ていうか、今「わが魂は輝く水なり」が放送されてる??
posted by kuriko | 23:26 | TV(番外) | comments(6) | trackbacks(0) |
意外と親切な(あるいは単にお節介な)照日の前?
橋の向こう。

※画像と本文は関係ありません。


先日のこと、クリコが日傘をさしてふらふらと近所を歩いていると。

10歳前くらいの男の子が、歩道に座り込んで、しくしくと泣いているじゃありませんか。

見ると、サンダルを履いた片方の踵が、ぱっくりと切れて血が流れている。
状況から察するに、自転車ですっ転んだらしい。
はっきり言って、めちゃくちゃ痛そうであった。

「ねぇー、どうしたの?大丈夫?おうちの人よんでこようか?」
とクリコが声をかけると、
「だ、大丈夫ですっ。お兄ちゃんが今、お母さん呼びに行ってるから・・・」
と、少年は健気に、涙をポロポロこぼしながらも答えるのであった。
「そっかー。お母さん、すぐ来るの?」
ときくと、こっくり頷くので、じゃあ大丈夫かしら?と思ったのだけど、その時クリコのカゴバッグにお菓子が入っていたので
「ねぇ、キミ、お菓子食べる?」
と聞こうかと思ったのだけど、この炎天下、ケガをして泣きながらお菓子なんて食べるわけないか。と、自分のとんちんかんな考えに、ふと苦笑したクリコなのであった。
(そして少しして、またフラフラとその場を立ち去ったのである。)

完。そいだけ。

(↑自己完結型。)
posted by kuriko | 23:50 | 番外 | comments(2) | trackbacks(0) |
ポール・クローデル著 内藤高訳「朝日の中の黒い鳥」
夏の一日

要するに私は一人のアマチュア、見物人に過ぎません。にもかかわらず、このアマチュア、見物人という条件の中にいるからこそまた楽しみも大きいのです。思慮に富むと同時に素朴な驚きにも満ちた目を見知らぬ国に向ける一人の訪問者にとって、無知というものはお伽話を味わうような特権を形作るのであり、すべての価値もそこに感じられるのです。まなざしが全く新鮮であるということは何らかの犠牲を払うに値するものです。

(本文より)



著者による初版は1927年に出版されているらしいのだけど、本書は1965年に出版された「クローデル散文集」収録のものを、講談社学術文庫版として翻訳したとのこと。1988年に出版されています。

本書に収められている「能」のテキストはとても有名で、クリコが今さら紹介するのもなんとなく気がひけるのだけど、ネタづまなんだからしょうがない。なので簡単に。

タイトルの「朝日の中の黒い鳥」というのは、もちろん、カラスのこと。
訳注によると、三本の足を持つ八咫烏(神鳥)と、当時のフランス大使公邸にやってきていた一羽の老いた烏の存在が、詩人に懐かしい印象を残したようです。ちなみに公邸は現在の、皇居近くの毎日新聞本社あたりにあったそうな。

そして著者は能楽、歌舞伎、文楽、舞楽など旅するがごとく興味深く楽しんだようです。
この本を読んでいると、異国を旅する詩人の目で、お能を再発見するような喜びがある。憧れの異国を訪れた詩人の目、そして耳の鋭さには、本当に驚かされる。
彼は躊躇なく鑑賞から本質に踏み込んでいるけれど、彼の中で翻訳された描写は、直感ではない緻密さがある。

・・・扇はまるで翼のように、脈動し、大地を求め、空を漂ったり旋回したりしながら上昇する人間の思考の運動を余すところなく模倣するのである。それはあの色彩の構築物〔華麗な衣装に包まれた演者〕を変形し、その心臓の上でゆっくりと鼓動し、動かぬ顔の代わりにうち震える黄金と光の点なのである。それは、同時に咲き誇る花、手のうちにある炎、鋭い矢であり、思考の地平線、魂の震えである。・・・

(本文「能」より)


全然関係ないけど、誰かと一緒にお能を観に行くときは、普段全く観ていないヒトと行くのも面白いです。「そ〜いえば、そんなことすっかり忘れていた」というようなことを教えてくれるので・・・。




posted by kuriko | 12:27 | 読書(能・狂言) | comments(2) | trackbacks(0) |
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