能楽鑑賞などなどの記録。  
観世左近 「能楽随想」

今は名実共に家元の芸を備へなければ、人に問題にされなくなる。芸が出来ての上でこそ、はじめて家元たる本当の資格が備はるのであつて、下手くそでは、家元でござい、と人の上に立つ事は出来ない。此処に、これからの家元の悩みがあるのだ。
能楽界には沢山の名人上手がある。その中に伍してゆく若輩の私は、勢ひ死に者狂ひの勉強をせざるを得ない。ちよつとでも油断をすれば、どんヽ後輩に追ひぬかれてしまふ。それ等を引き離して先輩の陣容にせまり、尚かつその上に出ようと不断の精進をつゞけてゐるのが、私の偽らざる一面である。
まだもう一つ苦しいことがある。それは家元たるもの、たゞ単なる名人上手だけであつてはならないことだ。家元芸と云ふか、大夫芸といふか、気品を伴った大まかな・・・


(本文より)



※引用はすべて新字体に変更しています。


1939年に出版されたキヨのおじい様、二十四世の本です。


非常に面白く興味深い一冊だったのだけど、読了して何より驚くのは、二十四世がこの本の校正の途中に、まだ四十代の若さで亡くなられていることである。三月の京都で風邪をひいて肺炎を起こし、急逝されたとのこと。(編集に協力した三宅襄のあとがきに記されている。)


この著者初の随筆集の「序」には、現在の自分と、いつか出すはずの第二、第三の本を著す頃の自分とを比較してもらいたい・・と、書いてあるのに・・。


そういえば、キヨと松岡心平の講演会を聴いたときも、代々の観世大夫は激務のためか、早世していることが多いと言っていた。他ならぬ二十四世自身も、そしてその嗣子である二十五世(キヨPapa)も、若くして(というか、コドモのうちに)家元を継いで苦労されたらしい。


山崎有一郎の『昭和能楽黄金期』によると、二十四世はわりとドラマチックに能を演じる人で、「能をこの人なりに解釈して、一所懸命に面白くしようとしていた」「左近さんにとって唯一の頼りは自分がうまくなることだったに違いないね」とのこと。
実際、この本にも養父、実父と死別した後には、世阿弥以来の数々の宗家の伝書を師と恃んで、独学のようにして修行に励んだこと、繰り返し読み込んで「自分の判断によって整理し、演能の方針を立てる」と工夫のほどが書いてあった。それにその行間からは、能楽師たるもの芸術家たるべし、のような心意気が感じられる。


他にも、家元としての心得や流儀の主張、弟子たちへの愛(笑)、何かと毀誉褒貶の激しく、責任の重い観世宗家ならではの大変さなどが率直に綴られていた。
「ともかく何時の場合でも家庭に於ける時間以外は、一私人となることが出来ないのだ。かなりつらい事だ。努力のいることだ。」等々。

他にも縁の人たちの思い出や、「家譜」の一部も収録されています。


キヨには、あんまり頑張り過ぎないで、ちゃんと三郎太チャマが一人前になるまで長生きしてもらいたい・・と思ったことでした。

posted by kuriko | 02:04 | 読書(能・狂言) | comments(0) | trackbacks(0) |
観世会 秋の別会 (その1)

めも.jpg


屋島 大事 語那須
シテ  観世清和
ツレ  坂口貴信
ワキ   宝生閑
アイ  山本泰太郎


大鼓  亀井忠雄
小鼓  鵜澤洋太郎
笛    一噌庸ニ
  
地頭  角寛次朗


狂言
栗焼
シテ  山本東次郎
アド   山本則俊


采女 美奈保之伝
シテ  谷村一太郎
ワキ  森常好
アイ  山本則秀


大鼓  安福建雄
小鼓  曽和正博
笛    松田弘之
  
地頭  坂井音重


仕舞
難波  武田志房
野宮  野村四郎
鵜之段 関根祥六
歌占  山階彌右衛門


石橋 師資十二段之式
シテ  観世芳伸
ツレ  武田尚浩
     上田公威
     藤波重孝
ワキ  殿田謙吉
アイ  山本則重


大鼓  柿原弘和
小鼓  観世新九郎
笛    一噌隆之   
太鼓  観世元伯


地頭  岡久広


※2011年10月2日(日) 観世能楽堂にて。



すっかり秋めいてきましたね!


というわけで、秋の別会に行ってきました〜。
この日も大盛況で、三番が三番とも素晴らしかったです!
さすが別会!だったのでした。


なかでも「屋島」は、も〜、キヨがまたまた大爆発!
大事つきのキヨの「屋島」は、7月に大阪でも観て今年2度目だけれど、大阪の時よりもさらに凄かった気がしました・・(多分)!!


屋島。


旅僧の閑が、お供も連れて屋島の浦にやってくる。


閑のワキ僧は、謡も潮風に吹かれているような、漂泊の詩人のような深い余韻を感じさせた。


例によってまた日も暮れてしまったし、あの塩屋にでも一夜の宿を借りよう・・と話がまとまる。なんだか当てどの無い旅である。
中世の旅人は、ネットでクルマもホテルも割引で予約済み・・とはいかないらしい。


そこにキヨたちもやってきた。


いきなりキヨの気迫というか、気合というか、非常に力の籠った一声が見所に響き渡る。舞台の空気が一気に変わる。
正体不明の漁師姿のツレは、今回は髪をビシッ!と七三分けにした坂口貴信で、明るく伸びやかな、そしてキリリとした声でキヨに応えていて、新旧(←「旧」は誰だ?)美男子たちが舞台に揃ってなかなか良い眺めです。


ま、キヨのおカオは面で拝めないのだけど・・、前シテの面は『福来』の作を『河内』が模したとかいう朝倉尉で(ロビーにそう掲示してあった)、品のあるハンサムなおじいさんでした。
もちろん、実際の舞台の上は張りつめきった空気に満たされていて、貴信キュンも例によって、今にもバタっと倒れて死ぬんじゃないかというほど緊張した顔つきだった。


そして屋島の戦を語るシテの何よりも素晴らしかったのは、その圧倒的な存在感で、下居しているだけでも、舞台の床がズドンと抜けそうなくらい。
三保谷四郎と景清の錣引きの描写も、互いに生死を賭けたやり取りの、生命力を爆発させる声、劇的な量感の描写が凄まじい。


田舎暮らしの一介の漁翁にしては、あまりにも真に迫った語りぶり。シテは自分の正体が義経であることを匂わせつつ、ツレとともに消えていく・・。


中入りで泰太郎の那須の語り。大蔵流で聴くのは久しぶりで、所作なども和泉流とは違っていてちょっと新鮮。でもさすがに力みすぎというか、重くなりすぎて声なども所々ウラ返っていたカモ。とにかく精一杯の大熱演といった感じです。

やがて現れた後シテは、白平太の面(確かに色白だった)に法被を肩上げにして、「斧」模様の赤い半切の出で立ち。
さては義経の亡霊か・・と、閑とキヨが夜の海の、この世とあの世の境で大声で呼び合うようにして言葉を交わす。死んでなお闘い続け、戦場に戻ってきた義経。洋太郎と交換した相引きに腰掛ける。


シテの周囲では既に戦いが始まっていて・・、義経がふと弓を落とすところ、まるで香港映画のウォン・カーウァイ(←いささか古いですかね?)の「コマ伸ばし(スローモーション)」手法みたいに、シテの動きと背景の動きの速度が違って観えた。


カタッとシテが扇を落とす音と、小鼓の音が重なる。


はっ。として弓を取り戻そうと、波をかき分け命懸けで引き返そうとする義経。あと少し!とスローモーションのように手を伸べる姿に、雄渾な武将の世界と、我執を断ち切れない魂の深い影を同時に感じさせる。


波に揉まれつつ弓を取り戻すと、また修羅の時がやってくる。
誇りを盾に、スラリと刀を抜く義経。このとき海上にはあらゆる戦いで死んだ兵たちが、続々と集まってくる。


シテが一度、両腕を胸のあたりでクロスさせるようにして、開いた扇で顔を隠すという型があったのだけど、ここが本当に、武道のように一瞬でバシ!っと決まっていて鮮やかだった。(←久しぶりに?、キヨかぁっこいい〜っ♪と思ってしまった・・照。)


今回の義経は、朝陽が差して戦場がただの海の景色に変わっていっても、驚き騒ぐ様子もなく、ただ真っ直ぐにその影を追って去って行った。


そして閑がそれを見送るように浜辺を進み出て、つくづく感じ入ったように、憐れむように、深い感慨を持って留める。


采女。


そして采女は、いやもうツネツネが凄かったネ!
前場はもう、ツネ2がもう一人の主役の勢いでした。


ワキは着流しの「屋島」と違って白大口の僧にしてあって、ぐっと品位も上がる。
名乗りの位置も違っていて、シテ柱に近いあたりで名乗る。ワキツレたちはそのあいだ、橋掛りに膝を着くようにして待っていた。
(ちなみに屋島のときは、ワキ柱の近くで名乗り、ワキツレたちは、シテ柱のあたりで『順番待ち』みたいな感じで待つ。)


実はこの後の「石橋」では、ワキは寂昭法師(大江定基)と名のある僧で、白大口、沙門帽子に紫の水衣で、格付けもMaxといった印象。こちらは舞台の真ん中あたりで堂々と名乗る。
屋島(閑)<采女(ツネ2)<石橋(とのけん)と、曲によってワキの格も上がって行って、ワキ僧づくしのバリエーションが一日のうちに感じられて面白かった。


それはともかくとして、ツネ2の謡声は大変に美しく、存在自体が気品に溢れ本当に素晴らしい。


美奈保之伝の小書つきで、そんな旅僧たちに、シテが遠くから呼びかける。
充分な間を取って現れた一太郎もとっても美しくて、シテとワキが猿沢の池を眺めるところなど、ほーっと春の清浄な空気が感じられた。


しかし実は・・、ここで采女は身投げしたのですよね・・と、シテが池を覗き込む仕草に凄愴な翳りができる。



つづく。

posted by kuriko | 00:48 | 能・狂言 | comments(2) | trackbacks(0) |
観世会 秋の別会 (その2)

夏の思ひ出

(承前)

なんとシテは、そのまま池の中にぽちゃん!と飛び込んで消えてしまったのだった。
彼女は采女の霊だったのだ。


ワキたちが里人から悲しい采女の物語を聴き終えて、猿沢の池で弔いをして待っていると、池の底から何者かがやって来る。


紺色の衣を被き、低く上体を下げるようにして橋掛りを進む。恐ろしげな雰囲気にどんな鬼が現れるのか・・と思っていると、被きを取ればそれは、美しい采女の姿だったのでした。
水から上がってきたばかりの姿で、淡い鶯色の長絹に長い髪がニ筋だけ乱され、そんなところにも色香が漂っていた。地謡も繊細かつ重厚で素晴らしい。


そして、ああとっても綺麗だなぁと思っているうちに、すーっとウトウトと夢見心地になってしまった。。だって眠かったんだもん。。。


正博の序を打つ音が、ぽんぽんと丸みを帯びて、すごーく良い音だったのは覚えているのだけど・・。弘之の音色も、悲しげでとっても綺麗だった。


そして采女の霊は、始終クリコに向かって優しく微笑みかけていたような気がした・・。


自分に都合の良い夢ですが・・。


続いて、四郎、祥六と重鎮たちの登場したお仕舞。四郎の野宮は、やっぱりとってもヨイですな。


そして石橋。


前述の通り、寂昭法師に扮したとのけんが、格付けMax!といった出で立ちで威風堂々と登場。
銀色の沙門帽子に掛絡もつけて、なんだか『盛ってます』という感じで面白い。


そして芳伸扮する童子が現れるのだけど(今回は前シテは童子でした)、これもすごーく良かったです。非常に気合の入った声の中にも、品の良さが感じられる。
命を投げ打つ覚悟を素早く固め、石橋を渡ろうとするとのけんを、シテが鋭く制します。


今では省略されることの多い石橋の前場だけど、情景がイメージしやすくて、クリコは結構好きである。石橋っていうのは、こんな姿形なのだよ!と事細かに説明されて分かりやすい。とにかく、浄土へと続く橋は、生身の人間が渡れるようなものではないのだ。


「せがれ仙人」(アイ)の立ちシャベリの後に、華やかな作り物がどんどん運ばれてくる。
「師資十二段〜」の小書のために、紅白の牡丹のほかに、ピンクの牡丹の花が乗った作り物まで登場です。


勇壮な乱序に続き、赤い獅子たちが三頭(?)舞台へと身を躍らせる。
母とその子供たちというより、三人兄弟のようだった。


そして兄弟が遊んでいるところに、作り物の引き回しが落とされて、白練を被いてうずくまった白獅子も登場です。シテが、ちゃんとぺたーっと上体を倒しているのが、なんだかキヨっぽい。
眠れる獅子が目を覚ました如く、後場の芳伸の気迫も凄かった。誰よりも一番高く跳んでいましたお!(親獅子なのに!)
囃子のリズムが段々と早くなり、真っ赤な(ちょっと白の彩色のある)奔流のようになってくる。


・・が、しかし、四頭が一畳台に跳び乗って、見所に向かってキメポーズする見せ場で、隆之がまたも息切れ。。。くくく〜っ!と精一杯頑張ってはいるのだけど、息も絶えだえといった印象。。。前回も同じ小書の時に息が切れていた覚えがあって、どうやらこの人は、「師資十二段〜」がどうしても吹けないらしい。(←それとも、吹けなくなったのか?)
崖の上の獅子たちも、さすがにちょっと、オイオイ・・といった感じで、というか、シテたちの気合が素晴らしかっただけに、率直に言ってここは残念だった。
一噌幸弘に循環奏法を習うとか、水泳を始めるとか、断るとかしてはどうだろうか。
(循環呼吸奏法は、フツウ能楽囃子ではやらないらしいケド。)


しかし舞台そのものは途切れることなく面白く続き、弘和(と元伯)が「こりゃダメだ」と見切りをつけてフォローに入っていたような感もあって、クリコにしては珍しく、囃子方(神遊チーム)のチームワークと仲の良さに感動したのであった。
あのあと楽屋では、「みんなゴメン・・」「気にすることないよ!」と優しく励ましあっていたのだろうか?(注:単なる想像です。)


みんな気を変えて、白獅子と赤獅子が年少のを獅子を蹴落とし、さっと崖を飛び降りると、四頭の獅子が円陣を組んで、エイエイオー!と気勢を上げるかのような場面もあって見所も盛り上がる。がんばろう日本!(←舞台は中国なのでは・・)
芳伸なんて作り物にぶつかっても、そのままぶっ飛ばしていましたよ!


そういえば、ノブはキヨの弟でしたね・・。そんなことすっかり忘れていましたが・・。


というわけで、とっても楽しい石橋、楽しい会だったのでした!


おしまい!

posted by kuriko | 05:58 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
観世会能楽講座 第3回「花筐」

試作品。

講師 観世清和
    松岡心平
ゲスト渡辺保


※2011年10月7日(金) 観世能楽堂にて。
※以下の内容は、クリコのうろ覚えにもとづくものであります。
※長いです。



というわけで恒例のお楽しみ、キヨの能楽講座に行ってきました〜!


まずはキヨの御挨拶から始まって、皆さん、「ワークショップオタクにならずに(笑)」11月6日の本公演もぜひ観に来てくださいね、とのこと。
最近はネットなどにも、まるで観て来たような気分になれる情報が溢れているけれど、舞台の生の魅力、役者の息遣いを感じていただきたいのです。と。
(このときキヨは、丁寧に「インターネット」と言ったのだけれど、なんだか「いんたーねっと」と発音したような気がした。)


「花筐」という曲は、シテの格、芸位を要求してくる曲で、型付けや謡本だけでなく、その行間に漂ってくるものが必要な曲なのです。私も(若い頃に)先代にお稽古してもらったときは、「君にはまだ無理だね」と言われた思い出がある、とのこと。


つづいて、松岡心平による曲の解説があり、詳しいあらすじの説明がありました。


武烈天皇が後継者を残さず死去して、越前にいた継体天皇(大迹部皇子)が急遽、皇位を継承することになり、照日の前(シテ)に花カゴとメッセージを置いて、都へと出発する。
と言っても、当時はまだ『奈良の都』はなかったので、古代の大和のどこか(桜井市のあたり)の都だったらしい。シテは物狂となって天皇の後を追っていく。


ちなみに史実(?)では、継体天皇はいわゆる「玉穂の宮」に入るのに20年ぐらいかかっており、このあたりは能の設定とはだいぶ違うとのこと。(そう、継体天皇はものすごく長寿な人だったのだ。)


そして「世阿弥がいた場所」の天野文雄の説も紹介されていました。
(←「花筐」は世阿弥が足利義教の将軍宣下を祝って、継体天皇と照日の前の関係を本人と夫人の物語に当て込んだ作った曲だ。という説。)
「花筐」が制作されたと思しき時期は、確かに将軍も天皇も、直系ではなく傍系の人に代替わりするという事件がおきていて、さすがに、継体天皇と照日の前の関係をそのまま、足利義教とその夫人の関係に当て込むのは行き過ぎと思うけど・・とのことでした。


ちなみにクリコも、57歳にして天皇に臣下から推挙された継体と、家臣の籤引き(!)で僧籍にありながら将軍に決まった足利義教は、境遇として似通ったものを感じる。そういう家系の変わり目のときはよく「継体天皇の先例」が引き合いに出されているそうで、目ざとい世阿弥のこと、すぐそういう話題性に飛びついたのカモね。


そして心平と、日本一の見巧者(と心平が言っていた)渡辺保の対談です。
これが予想に違わず、かなり刺激的な内容でした(笑)。


保自身は「素人の言っている、拡大、持ち出し解釈だから気にしないで」なんて心平に言っていたけれど、渡辺保も「花筐」の曲がかなり好きだそうで、それは次のような2つの魅力があるから・・だそうです。


1つは、このときすでに50過ぎで、「愛人」を捨てて社長(天皇)の縁談を取る出世欲の強い男と、それに泣き寝入りできない女性の気持ちと、関係がよく表れていること。


もう1つは、天皇制というものを批判していること。昭和20年8月15日に、私は10歳だった。
玉音放送を聴いたとき、みんな泣いていたが、吉本隆明に言わせれば天皇と天皇制は別なもので、この曲を観れば、男性原理と女性原理の両方を持っている天皇制の残酷さとメカニズムがよく分かる、ここには右翼の人はいないでしょうね?とのこと(笑)。


花筐を供えて神に祈っていたというが、自分を天皇にしてほしいなんて祈っていると知れたら、普通、殺されてしまう。実際、大迹部皇子の前に第一候補となった人間は、使者を殺して山に逃げている。花筐はカモフラージュだったのではないか?『李夫人の曲舞』も面白いし、なによりドラマとしてよく出来ている、これに対抗できるのは三島の「朱雀家の滅亡」ぐらいだと思う。なんだとか。
(ちなみに心平によると、武烈までは男性原理的な「暴君」で、継体から『空虚な中心』としての、女性原理的天皇モデルが誕生しているらしい。)


それに花カゴという小道具が、二重三重の意味で全体によく利いていて、「オセロー」のハンカチに匹敵する。戯曲家としても上手いと思う、とのこと。(普通、小道具というのは、1回使ったら終わりなんだそうです。)


心平の話では、「花筐」は天皇と芸能者の関係をよく表しているとのことで、「狂う」ことが芸能の始まりで、一セイのところで「御幸に狂ふ囃子しこそ 御先を払ふ袂なれ」とあるが、シテが狂うことによって、行幸を祓い清めているのだそうです。


保はそれに対して、天皇を清めるためにシテが狂うというのはいいが、でもそれは悲しい、結局利用されている、と。自分は照日の前に同情している。彼女は非常に頭のいい女性で、『李夫人の曲舞』で、中国の皇帝は夫人が亡くなってこれだけ悲しんでいる、それなのにあなたは・・と相手の弱みをついている、と言っていた。


『李夫人の曲舞』というのは、観阿弥の作曲とされていて、「花筐」の成立当初は取り入れられていなかったという説もあるらしい。キヨがこの後の鼎談で言っていたのだけど、以前、大阪城の薪能で、時間の関係でクセを抜いてほしいと主催者に頼まれて、やむなく抜いて舞ったら、天野文雄に「よく勉強しておられますね」とホメられたんだとか(笑)。
(そしてこの時、大阪城薪能は夏の日の夕方からやるのだけど、舞台が熱くなっていて大変だった、灼熱の「花筐」だったという思い出があるそうです。笑)


また心平によると、世阿弥は古代の天皇が登場する曲をよく書いていて、「呉服」では、応神天皇の時代の渡来人が登場する。今の(当時の)日本が素晴らしいので、再度やってきたというが、これは絶対に足利義教を意識した内容だと思う!なぜなら足利義教は、石清水八幡宮の神前の籤引きで将軍に決定されていて、石清水八幡宮はすなわち応神天皇だから!とのことでした。


また渡辺保は、能は想像するから面白い、きりつめた構成の背後にある光源を、探し求めるところに面白さがあると言っていた。
友枝喜久夫の「花筐」キリの仕舞のときには、一陣の風が吹いて紅葉が散り、それが血だと感じた・・そうである。


さて、ここまできて、やっとワークショップです!


キヨのお仕舞で、「花筐」のクルイ、クセ(『李夫人の曲舞』)、キリまでを観せてくれました!


キヨもお顔をキリキリっとさせて(シャレではない)登場です。これまた素晴らしかった。
たしかにクセのところはとても特異な印象で、地謡などもメロディだけ聴いていると、まるでお能じゃないみたい。とても綺麗なのだけど、大きな影が動くような(反魂香のせいか?)不思議な雰囲気です。


そして、「ひとり袂を片敷く」でクセを終えて常座で坐るキヨの姿勢が、すっごーく綺麗なの!


実はキヨ自身の解説によると、『李夫人の曲舞』はたしかに集中して、体力を使う、ここからゆっくりとした動作に移るのは逆に疲れるとのことで、どうやら一息入れる箇所でもあるみたい(笑)。「もちろん、どうってことはないんでございますよ」と、強がりを言うキヨ(笑)。普通の序破急の曲とは、論法が違っているのだそうです。


ちなみに小道具の花カゴは、筐之伝の小書が付くときは造花だけれど実際に花を入れ、付かないときは榊の葉っぱだけなんだそうです。
実は見せてくれた花カゴには、見所から観てもよく目立つように洋花も入っていて(笑)、「日本のお花は可憐でございましょ?それで先代が(洋花も)じゃあ入れちゃえよと言うので・・」なんだそうです。
もしかしてキヨPapaは、合理的な実は江戸っ子?気質の方だったのかしら(笑)。
それから安閑留も、先代が詞章が変わるものがあまり好まなかったので、観世流ではほとんどやらないとのこと。


ちなみ昨今は優秀な竹細工の職人さんも減ってきているので、先代がわざわざ人間国宝の先生に頼んでカゴを作ってもらったら、請求書にものすごい金額が来てびっくりした思い出もあるんだとか(笑)。「人間国宝の先生に、お見積もりは?とは聞けなかった・・」そうで、でも確かに素晴らしい出来映えで、今では我が家の家宝にしております♪とか。


ずっと花カゴを持っていると手が震えてくるけれど、これは自分の手だと思えば震える、他人の手だと思えば震えない・・と、相変わらず(?!)論理を超越した秘伝(?)も話していました☆


「花筐」は手数が多くて、カゴを取り扱い、文を読む扱いや連吟も多くて、深い思いを込めてやるのは若い人には難しい。もちろん、ツレとは本番前には連吟の稽古もするけれど、本番のテンションや機微を感じ取ってくれないツレもいる。「燃えているオレに気づいてくれないんです!」等のウラ話も飛び出します(笑)。


また渡辺保の「しどころは?」「仕舞と能の違いは?」の質問には、先代の教えにワキに花筐を渡してから、ワキの姿で遮られていた子方(天皇)の姿がシテに初めて見える。これは、天皇が照日の前を思い出して、輿の御簾を上げて顔を見せたところなんだ・・というのがあって、先代の工夫だと思う、とか、面や装束をつけると自然と役に入っていけるが、仕舞だと自分に言い聞かせてからやる、とキヨは答えていました。


また「花筐」は仕舞では若い人にやらせることもあるが、「江口」や「野宮」といった曲となると、能一曲とは違って仕舞のほうが大変、なんてこともあるのだとか。名人大家は、仕舞や舞囃子を観て違いが分かる・・のだそうな。


とまぁ、他にもいろんなお話あったけれど、こんな感じでお仕舞い。面白かったです!


そして三人は切戸口に先に入るのをやたら譲り合ってから、退場していったのでした。


ちなみにご好評につき!とのことで、来年も能楽講座が開催されるそうで〜す。
お楽しみに!

posted by kuriko | 22:56 | 講座(能・狂言) | comments(0) | trackbacks(0) |
味方健鳩寿・味方玄独立二十周年 記念能 (その1)

ここはどこでしょう



     味方玄
面箱   茂山童司
千歳   味方團
三番三  茂山逸平


高砂 八段之舞
シテ   味方玄
ツレ   橋本忠樹
ワキ   原大
ワキツレ小林努
      有松遼一
アイ   茂山茂


大鼓   河村大
小鼓   曽和尚靖
      成田達志
      伊吹吉博
笛     杉市和
太鼓   前川光範


地頭   片山九郎右衛門


狂言
千鳥
シテ    茂山七五三
アド        茂山正邦
         島田洋海


舞囃子
葛城
      林喜右衛門
大鼓   上野義雄
小鼓   吉阪一郎 
笛     竹市学
太鼓   前川光範


仕舞
老松   梅田邦久
野宮   山本順之
鞍馬天狗片山伸吾


一調
三輪
      片山九郎右衛門
小鼓   曽和博朗


舞囃子
実盛
      片山幽雪
大鼓   谷口正壽
小鼓   成田達志
笛     杉信太朗  


姨捨
シテ    味方健
ワキ   宝生閑
ワキツレ殿田謙吉
      御厨誠吾
アイ    野村万作


大鼓   山本孝
小鼓   大倉源次郎
笛    藤田六郎兵衛   
太鼓   前川光長


地頭  山本順之


※2011年10月10日(祝) 京都観世会館にて。



というわけで、またまた京都に行ってきました〜!


シズカ(呼び捨て)の独立20周年と、シズカPapa・健の「鳩寿」記念だったのですが、これがホントにすごい会でした!素晴らしかった。


本当のことを言うと、今回のお目当てはシズカよりも、どちらかといえば健だったのですケド。


前々から、研究者(?)にして実践者・味方健というヒトに興味があったのだけど、さすがに講座を聴きに毎週京都に通うというわけにもいかず。やっぱり、その能を観るのが手っ取り早いワイと考えて、この機会を逃すとさすがにもう、次はないカモ、という気がしたのであった。


ちなみに鳩寿となっているけれど、健は今、数えで80歳のはずである。
なんで「鳩寿」なのだろう・・?まさか間違えたとも思えないけど・・?


クリコの雑念はさておき(いつも雑念しかないが)、翁は淡々と、粛々と始まった。


全体として、特に関西風だということもなかったと思う。切り火の音が聴こえなかった気がしたけれど、単に聴こえなかっただけであろう。(実はクリコ、関西で翁を拝見するのは、(多分)初めてなのです。・・・どこかで観ていたかもしれないけど・・、記憶に無い。)


面箱を先頭に、神渡りの様子が再現される。翁大夫の装束に身を固めたシズカも現れた。
それから千歳、三番三、囃子方・・と続く。


翁を許されるほどの役者で、しかもシズカだし、翁自体はどうってことなく?!やりおおせると思っていたけれど、ヒトが翁を披くのを観るというのは、緊張するものである。
別に翁という式目自体に巧拙があるわけでなし、こうした「儀式もの」は、演者の本気度に全てが懸かっている。とは思うのだけど、道成寺とは逆に、翁だけは慣れがものを言うような気がする。
(あるいは、単にキヨの観過ぎかもしれない。)


翁大夫が正面に向かって拝礼し、座に着いた後に面箱から翁面が取り出されると、神人たちも、一斉にざざざっと素早く席に着く。
遅参者が多かったためか、見所にもぱらぱらと観客が入ってきた。この対応はいかがかと思うけど、舞台の空気も、シテの緊張も少しも乱されることはなく翁は進む。


小鼓たちがわらわらと床几にかかり、素襖の袖を脱ぐ。
観世左近の「能楽随想」にその昔は謡初の時などは、素襖の袖を脱がずに『観世撚』で袖を取った・・なんて書いてあったけど、本当かしら?すっごくやりづらかったのでは。。


小鼓が凛々しく打ち始めると、千歳(マドカ)が颯爽と舞い始め、シズカがその間に翁の面をかける。落ち着いた手つき。手伝う後見は、もちろん幽雪である。
実は今回、脇正面から観ていたのだけど、千歳の袖が一瞬シズカの姿を隠したかと思うと、その間に翁は完成していたのであった。


シズカは朗々とした声も、キリリとした舞も大変に美しく、その美しさが翁の厳粛さを邪魔していた感さえあった。でもとても清々しくて、いかにも善いものを観た、という気にさせられる。
翁の千歳が去っていくと、続いて三番三。しっかりと大地に足を踏ん張るような、土俗的な印象のある三番三で、茂山家の意外な(?)もう一つの顔を覗かせる。鈴の段の黒い翁も、こってりとした(?)強い味わいだった。

影。


高砂。


シテもそうだけど、地謡、囃子方も引き続いての出演である。翁、脇能と同一のシテというのも、本来の姿とはいえ、ちょっと珍しい。
正先に、青竹の柵(竹やらい)に囲まれた松の木が出る。健の解説によると、これも十五世元章以来の正統な(?)演出らしい。東京で八段之舞を観るときは、いつもの白い台もあったような気がしたのだけど・・あっちが略式だったみたい。


置鼓は省略されていて、次第で阿蘇の宮の神主たちが登場し、続いて遠距離長寿夫婦が登場する。


ここでもシズカが素晴らしく、翁の時とはまた佇まいを変え、端正で力強い老翁となっていた。この長寿カップルの長続きの秘訣は、互いに適度な距離を置いていたことであろうか。(余計なお世話ですね。)


アイも侍烏帽子に素襖姿で、語りも独特な抑揚がついて様式的で、舞台に一切の淀みは残さない。


高砂や この浦舟に帆をあげて


ワキの目出度い待謡が終ると、竹やらい松は後見が引いて行った。
そして後場となるわけだけど、急に強い潮風が吹いたように、囃子も颯爽として気迫に溢れ素晴らしい。尚靖は、派手な黄色の紋付がよく似合っていた。


そして後シテが現れる。


三日月の面だったと思うが(小書つきのため)、古いものだったのか毅然として神気に青ざめ、とても印象的だった。
神舞では翻す袖が風を起こすようで、世界の拡がりが感じられる。
潮風が吹きすさんだかと思うと、ぴたりと止んで凪となる。海の表情を観るような緩急が面白い。


住吉の神は、両袖を決然と力強く巻き上げ、最高の予祝を残し消えていく・・・。

つづく。

posted by kuriko | 22:19 | 能・狂言 | comments(2) | trackbacks(0) |
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