能楽鑑賞などなどの記録。  
国立能楽堂企画公演二月 能を再発見するII ―憑依する少将―

鼎談   馬場あき子   
      梅若玄祥
      天野文雄


申楽談儀による
卒都婆小町
シテ   大槻文藏
ツレ   赤松裕一
ワキ   福王茂十郎
ワキツレ 福王和幸

大鼓   亀井忠雄   
小鼓   大倉源次郎
笛     藤田六郎兵衛

地頭   梅若玄祥

監修   天野文雄
      梅若玄祥
        福王茂十郎
 
※2013年2月28日(木) 国立能楽堂にて。


イヤハヤこれが、物凄い「卒都婆小町」でした〜!
なんだかもう、びっくりというか、全然違う曲みたいだったです。。。

今回の「卒都婆小町」は、世阿弥以後の時代に改変される前の、観阿弥オリジナルの全景を(できる限り)再現してみよう。という試みだったのでした。

最大のポイントとしては、観阿弥時代にはなかったハズの、シテが深草少将に扮する「物着」をやめる、そして観阿弥時代には登場していた、玉津島明神の『御先』としての「烏」を登場させ、キリの唐突感をなくす、というものだったようです(fromパンフレット)。(←申楽談儀に、かつての演出としてのカラス云々と書いてあるのだ。)

まずは上演に先立って、監修を行った天野文雄、GS、馬場あき子による鼎談がありました。三人、舞台の上に毛氈を敷いて、椅子に腰かけての鼎談です。

時間の都合でほとんど最後の部分しか聞いていたのですが、「卒都婆小町」のあのやや唐突な終わり方が話題になっていて、キリに玉津島明神の遣いであるカラスが登場することによって、小町の改心の唐突さがなくなったという話になっていたのですが、このカラスが一体何なのか、詞章では何の説明も無いので、この鼎談を聴いた人か、パンフレットの解説を読んだ人でなければ分からないのだとか(笑)。

GSは病床のお父様から「卒都婆小町」のシテとワキの問答のコツを教わったそうです。お祖父様もお好きでよく演じていたそうなのですが、自分は観ていない、とのこと。ただ、父と祖父では全然違ったふうだったらしい、とか。

あき子(呼び捨て)は、現行の「卒都婆〜」は「卒都婆〜」として、能とはそういうものだと納得して観ていたけれど、現代人は知識として仏教を分かっていても、心で分かっていない。だから、「葵上」のエンディングのように、鬼の顔をしていても心から仏になる。ということが分からないのだ・・みたいなことを言っていました。それに、現在の能は「俗」を切り捨てすぎて、カブキにやられちゃってるのだ、だとか(笑)。

ま、そんな感じで(どんな感じだ)、いよいよ上演です!

まずは、高野山からやってきたワキ僧の茂十郎と和幸が登場。高野山といえば、お家騒動のほうはは大丈夫でしょうか・・というのは余計なお世話で、ワキたちは行雲流水の心意気を謡う(フルバージョン)。

それ前仏はすでに去り 後仏はいまだ世に出でず 夢の中間に生まれ来て・・

と、クリコの好きな謡です。しかし随分と節回しが複雑な印象で、ちょっとびっくり。

ワキがワキ座に移るあたりで、後見が葛桶を運んできて、大小前あたりに置く。そして後見はなんとそのまま、切戸口のほうへまた引っ込みます。

シテが現れる前に今度は「習ノ次第」となるわけですが、これが忠雄と源次郎(と六郎兵衛)が本当に素晴らしくて、極めて繊細に、静かに、針の穴に糸を通すような緊張感です。しかし全くたゆみなく、音色は刻まれ続けて、時間の流れを感じさせる。

揚幕が上がっても、シテは容易には現れない。

かすかに観えている装束の袖の端が段々と大きくなって、ようやく老いた小町の登場です。かと思うと、橋掛かりに現れてすぐに、杖を手に休息する小町・・。

黒い笠に淡い緑の縷水衣、その下の摺箔でしょうか、袖のあたりがちょうど黄金色に光って観えます。

抑制された渋い謡い出しで、文蔵のあの特徴のあるすっぽ抜けたような声も、老婆の役柄にはむしろふさわしくて違和感がありません。例によって百歳になった小町は、ああ、こんなに年をとって・・と嘆きながら、よろよろと(しかし美しく)やってくる。

ちなみに文雄の解説によると、小町はこのとき都を出て、和歌の神である玉津島明神に参詣に行こうとしていたのではないか、とのこと。またこの曲の舞台も「阿倍野」にハッキリと設定されているようです(シテの台詞に、下掛りの謡にある着き台詞を追加してみた、と)。

笠を取ると、見事に年老いた女の顔が現れる。疲れ果てた小町は路傍の朽木に、どっこいしょ・・。とゆっくり腰かけます。
しかし実はかなりの力の見せ所で、文蔵は杖の先をカチリと葛桶にあてると、まったく後見不在のまま、一人だけで葛桶に腰かけてみせた。

そこに、ワキ僧たちが行き会うわけですな。

んん?!と驚くワキ僧。みすぼらしい老女が朽ちているとはいえ、なんと卒塔婆に腰かけているではないか!ということで、どれお説教してやろう、とシテに声をかける。茂十郎と和幸の武張った強い口調が、こうした場面にはぴたりとハマる。

ここでシテとワキの仏教用語の応酬となるのだけど、解説でも言われていたけどこの部分は、「善悪不二」とか「邪正一如」とかの禅の思想の現れなのですよ、と前もって教えらているとナルホドそうなのか、とも思えるけれど、そうでないと、ただ小町が「ああ言えばこう言う」式に、飄々とはぐらかしているようにも観える。

しかし論破されたワキは潔く敗北を認めて、小町に三度までアタマを下げます。「我はこの時力を得・・」と、シテの声は本当に嬉しそうでした。

だけどワキに「あなたは何者か。名乗りたまえ」と言われると、シテはピタリと沈黙します。今回の舞台では、この沈黙が沈黙として、波風の無い深い湖のようにズシリと効果を上げていて、演者たちの緊張感がひしひしと伝わってくる。

そしてついに、自分は小野小町のなれの果てなのだ・・と、告白する小町。

かつて美女として名高かった小町の変貌ぶりに、ワキも驚愕です。その姿にも俄然興味が湧いたらしく、その袋の中身は何?何?と質問攻めです。このあたりは本来、ワキの台詞なので、と、地謡と一緒にワキも謡ってました。(・・・地謡なので、さしたる効果はなかったように思ったケド。。)

その質問に、1つ1つ心を震わすようにして答えていた小町なのですが・・。

この辺りで「なう物賜べなう・・」と、突如として様子がおかしくなってくる。深草少将の霊が憑依したらしい。詞章に声も変わったとあるので、ワキたちにも何者かが小町にとり憑いたとわかったらしく、何者かと尋ねています。今度は深草少将だと自ら名乗り、そして今も彷徨う少将の霊が、百夜通いの有様を再現する・・。

監修者たちの前言の通り、物着は行われず、シテ柱のあたりで、水衣の肩を下げるだけ。

物着をなくしたことによって、確かに一場ものとしての緊密度がぐっと上るというか、切れ目がないというか・・。それに老女の姿でありながら、さらに深草少将の長絹を来て烏帽子をつけて・・という、どこか「哀れさ」が無い分、老女ものとしての品位が上がったような気さえする。

率直なところをいうと、百夜通いの有様を語っているのは、深草少将というより小野小町が自分自身の懺悔として内なる地獄を語っている・・ようにも感じられた。観せないことによって、存在が内面的に深まる・・とでもいうか。

あと一夜というところで死んでしまった可哀そうな少将の霊が、こうして自分を狂わせるのだと、地謡に乗せて叫ぶようにする小町。

激情が極まって、小町が絶叫したそのときに、突如舞台が静止する。

地謡は完全に沈黙し、囃子も道具を構えたまま何も奏でず、シテもワキも凍りついたように動かない。

しん・・と静まり返った中に、揚幕だけが音もなく上って、黒ずくめの装束姿の烏が一羽、飛来します。

黒垂をつけた、直面の裕一くんです。その頭上には、カラスが一羽・・。あのカラスは玉津島明神の「御先」なのです。
すーっと橋掛かりを進むと、小町の背後から手にしていた榊を左右に振り、最後に小町の肩にそっと触れる。奇跡の瞬間だ。

すると悪い魔法が解けるみたいに、少将の霊は小町から離れ、小町は我が心を取りもどすと、たちまち平静になり解脱の境地に到達する。

そしてシテは詞章の通り、黄金の膚こまやかに、花を仏に手向けつつ・・と、小町は立ち上がり、静かに静かに去っていきます。

この場面はまさに劇的で、もしこれが映画のような映像作品だったら、怪物の姿をしていた主人公が、一瞬で元の人間の姿に戻るがごとくです。ワキたち(と見所)は、神による救済ともいえる光景を目撃したことになる。より宗教劇的な意味合いが、深まったようにも思われた。

深草少将は、小町が若き日に知らずに犯していた罪の象徴だけれど、その罪を知ることによって、それまで闇夜で苦しんでいたシテの世界が反転した起死回生とでもいうか。神の御手が直接触れた、キリスト教的な回心のようにも感じる。

烏役の裕一くんは一言の謡もなく、まだ子供の顔をしていて、神秘的な無表情が素晴らしくよかった。
(裕一くんは、今月文蔵の芸養子になるんだとか。文蔵にも頼もしい後継者が出来て、大変おめでたいことです。)

しかし今度は、あのカラスが意味通りのデウス・エクス・マキナ (Deus ex machina)になったわけで、小町が仏道に目覚める唐突さが解消されたというより、唐突さの理由(意味)が判明したというか・・。(当時は神仏習合だったので、神の導きによって仏道に入るというのも、ごく自然なことだったのだ。)

このエンディングはとても強烈で、それまでただ老いた小町の物語りだったこの曲が、信仰告白の曲に転調でもしたかのようだった。

実はこれまでの「卒都婆小町」の終曲の度に、あのカラスは訪れていたのに、凡人である我々にはそれが観えていなかったのカモね。。。

というわけで、とっても素晴らしい公演だったのでした〜!



 

 

posted by kuriko | 23:26 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
マクベス

原作    ウィリアム・シェイクスピア
翻訳    河合祥一郎
構成・演出 野村萬斎

出演    野村萬斎
       秋山菜津子
       小林桂太
       高田恵篤
       福士惠二


※2013年3月3日(日) 世田谷パブリックシアターにて。



というわけで、楽しみにしていた新演出での萬斎さま『マクベス』を観てきました〜!

なんていうか、萬斎さま的美意識が炸裂!面白いというより、美しさと緊張感みなぎる!舞台でした!

舞台の上には、円形にくりぬかれた黒い板状のものだけがあり・・・、前回の公演よりもさらにシンプルな舞台になっています。

パンフレットの解説によると、萬斎さまも新演出にあたって、能舞台をかなり意識されたようです。それに、登場する役者はたったの5人だけ。マクベス萬斎、秋山マクベス夫人の2人以外は、3人の役者が魔女となり、王となり、あるときはバンクォーに、そしてマクダフに・・と、目まぐるしく入れ替わって演じます。

森羅万象・・と、モノローグが流れる中、魔女たちが現れて、つづいてマクベスが剣を振り回しながら飛び出してくると、すぐにもマクベスは魔女たちのあの予言、「王となるお方」・・・に遭遇する。

今回の公演では、登場人物をはじめとして、台詞や場面も、エッセンスとなる部分を残して、かなり刈りこまれていたようです(長台詞は健在でしたが)。マクベスが夫人と手を携えてあっと言う間に野心の階段を駆け上り、そして二人はそれぞれに、真っ逆さまに下っていきます。

「オイディプス王」などでもそうだけど、もし主人公が(あるいはその実践者が)予言そのものに出会わなかったら、いったい如何なる運命を辿っていたか・・。それは誰にも分からないけれど、マクベスは予言に出会ったことによって身を滅ぼすことになる。まぁマクベスの場合は、自分の中の密かな願望をずばり見抜かれたと言うべきかもしれないけど。

マクベス夫妻以外の三人の役者が実は魔女たちでもある・・というのは実に象徴的で、マクベスは始めから決まりきっていた運命を突き進んでいくかのようです。そしてついには、極めて能的に(?)魔女たちだけとの対話というか、マクベス一人の葛藤に収斂されいくかのようで面白い。
(パンフレットの萬斎さま自身の言によると、萬斎さまはマクベスの魔女という存在に一番心惹かれるらしい。)

萬斎さまが長刀を振るっての、舞働ふうの一人アクションも披露されていたのですが、目には観えない敵と戦う姿は、まるで修羅道に堕ちてしまった武将の霊のよう・・。(萬斎さまの長刀さばきはカッコヨカッタ。。)

シンプルな舞台には、一畳台ふうの小振りなセットが登場して、そこに波模様の揚幕を使ったり、王の玉座になったり。ただ真っ黒な背景に、血の花びらのように赤い大きな紅葉が散ったり。

そしてついには、バーナムの森がまるで津波みたいに・・。最終的にセットごと壊してしまうのが萬斎さまっぽかったカモ。ラストシーンは、雪がマクベスの上に降り積もるかのような、冬の光景です。

解説にも「和」を意識したとありましたが、海外公演が最初から予定されているワールドワイドVer.だけに、衣装も裃ふうのエリがあったり、大口袴ふうだったりと、能ライクなジャパニーズふうで綺麗でした。

ただちょっと、洗練だとか、和風だとかにこだわったミニマリズムに偏っていた印象もあって、観客が観ていて楽しむような『遊び』が無かった気もする。そこがマクベスの心でもあったわけだけど・・。海外の人が観たら、確かに新鮮カモしれない・・。

ということで、なかなか萬斎さまの野心さえも?!感じさせる『マクベス』世界ツアー編だったのでした!

 

posted by kuriko | 23:27 | 芝居(番外) | comments(2) | trackbacks(0) |
タンロー


「マクベス」繋がりで(?)思い出したのですが、淡朗くん、大きく育ち過ぎだなぁ・・。

いつか帰ってくるかしら。。。

http://www.imdb.com/name/nm4437969/

コリン・ファースの「モネ・ゲーム(邦題)」にも出演・・☆


※繁忙につき、こちらにまでなかなか手が回りませぬ。乞うご容赦。。

posted by kuriko | 20:42 | 番外 | comments(0) | trackbacks(0) |
おめでとう、キヨ太郎♪


ほほっ♪

キヨ太郎、「芸術選奨文部科学大臣賞」おめでとう〜!!

http://kanze.net/index.php?id=240

受賞理由になってる三番、確かにどれもすーごく素晴らしかったです〜!
私もハナが高いわぁ〜♪ (←何故?)

ていうか、一年のあいだに、これだけの大曲をバリバリこなすキヨ。。。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130312/k10013147431000.html

うんうん、初心忘ルベカラズだ・よ・ね〜☆ (←ノリが軽い。)




posted by kuriko | 22:58 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
第一回 下掛宝生流 能の会

DSC_0465.jpg

素謡
経政 
      宝生閑 
      野口敦弘
      宝生欣哉   ほか

仕舞 
俊成忠度 香川靖嗣
天鼓    友枝昭世

狂言
八句連歌 
シテ    野村萬
アド    野村扇丞

檀風 
シテ   高橋章
ツレ   武田孝史 
子方   宝生尚哉 
ワキ   森常好 
      殿田謙吉 
      野口能弘 
      森常太郎 
      野口琢弘 
アイ    野村万蔵 
      野村太一郎

大鼓   亀井忠雄
小鼓   大倉源次郎
笛     一噌庸二   
太鼓   金春國和

地頭   三川泉


※2013年3月17日(日) 国立能楽堂にて。



というわけで、第一回下掛宝生流能の会に行ってきました〜!「檀風」、素晴らしかったです!

まずは、素謡の「経政」から。もちろん、下掛宝生流の謡です。これがなんだか、すーごく新鮮でした・・。

閑も復活で一安心♪少し御痩せになって、ますます色白になられたようでしたが・・。それもまたセクスィーです(笑)。それにあのダミ声の中に、心情の繊細な揺れを感じさせる謡は健在でした。

地謡のワイルドなテイストには、ちょとびっくり!野太い声にあの独特な節回し。しかも閑がシテで、ワキがいきなりシテとして登場したかのようで、下宝の謡のまんまでシテになっててちょっと面白かった。

つづいて、何故か(?)喜多流の仕舞が二番。アッキーヨはさすがに綺麗でしたかね。香川靖嗣はいかめしいお顔をしつつ、ホントは舞っててすごーく楽しそうに観える・・。

「八句連歌」は、ほとんど寝てました。。。申し訳ござらん。。花粉症のおクスリ飲んでるもので、いつでもどこでも眠くなるのです。。クスリ変えようかなぁ。。しかし萬の体力はホントに超人的ですな・・。

で、いよいよ「檀風」です!

これがすーごい迫力で、かつドラマチック、まるでお能じゃないみたいでした(笑)!ツネ2もとのけんも、そして武田孝史(←子方の父・日野資朝)も素晴らしかったです!!

この曲は、宝生流では一応現行曲として扱われているらしいけど、下宝の東京での上演は、実に40年ぶりのことらしい。

まずは鎌倉幕府打倒の企てが露見し、佐渡島に流された日野資朝が、本間とのけん(ワキツレ)とともに登場です。宝生流では、資朝は直面のツレが勤めるらしい。とのけんが重々しく、急いで処刑せよとの知らせが都からあった、という。とのけんは立派な黒の直垂姿、資朝は白練に掛絡を掛け、水色の大口で、いかにもな囚人スタイル(?)です。

そこに、資朝の子・梅若と、都は今熊野の阿闍梨で、山伏姿のツネ2がやってきます。資朝の処刑が近いと知って、一目会おうと急いで舟に乗って来たのです!
梅若くんは、欣哉によく似たまだちいちゃな男の子で、甲高い謡いぶりがまだあどけないというか、コドモらしいというか、緊迫した舞台に反して、ほわんとお花が咲くようにカワイイ。これぞ時分の花でしょうか。ツネ2がこちらへ、あちらへ、と抱えるように丁寧に連れまわして(笑)います。

奉行所(なのですかね?)までやってくると、ツネ2と梅若が囚人との対面を願いでる。ツネ2ととのけん、ワキ方界の二大美声が堂々の対峙です。

本間三郎は意外にも根は優しい人らしく、本来は囚人は面会禁止だけれど、小さな子供のことだから・・、と、資朝に取り次ぐことにする。

一方資朝は、罪無くして配所の月を見る・・・どころの風雅な気分ではなく、もう早いとこ死んでしまいたい・・、という寒々とした心境を託っています。そこに本間がやって来るのですが、このヒトはホントにいい人なんだなぁ。と思わせるのは、最初にきっぱりと、資朝にあなたをもう処刑することになったと本当のことを言ってから、ご子息が対面に来ているので、お会いになるといい。と語る。とのけんも素晴らしい演技で、つくづくと誠意を持って資朝に語りかけているのが感じられます。

意外なことにこれに対して、いや、自分に子などいない。と答える資朝。動揺の無い、静かな決意に満ちた様子です。言うまでもなく、我が子に累が及ぶことを恐れての言葉なのでした。

すぐにその意を汲み取った本間は、ではあの二人は追い返しましょう、と言うのだけど、資朝もさすがに、都の者といえば懐かしいので、物陰からそっと見てみたい・・と言う。本間が自ら戸に見立てた扇を静かに開き、梅若の姿を見て、能らしい極めて簡潔な表現で思わず涙する資朝。子はいないと言ったのに、何故泣くのか・・と尋ねる本間に、あの子供の父親も流罪の者だろうが、わざわざ間違えて来るとは可哀そうに・・と、答えるのでした。

このあたりはこの曲を作った人は巧いな〜という感じで、クリコ的にこの曲を作ったのは世阿弥じゃ〜ない気がするのだけど、なかなか時代劇的な虚構づくりのセンスを感じさせます。ちなみに作者は不明らしい。

そして武田孝史の演技も、終始強さを全面に押し出していたツネ2、とのけん二人の動の演技に対して、さすがお公家さん?というか、気品があって、明日を断念した静かな境地を感じさせて素晴らしかった。葛桶に、きちんと腰かけている姿も微動だにせずに美しい。

資朝の我が子を思う心の内を汲み取った本間は、ワキ(ツネ2)と梅若をきっぱりと拒絶する。これには驚いて声をあげる阿闍梨。このあたりは、ツネ2ととのけんの激しい口論の様相となって、こうして二人が直接対決!してるのって初めて観るような・・。ま、まぁ同門のワキ方同士、当然といえば当然ですが・・。

「のう、のう」と叫ぶようにしてツネ2は、なおも本間に食い下がろうとするのですが、本間はぷいっと行ってしまう。
(←この「のう、のう」は、お能とは思えないような激しさで、ちょっとびっくりでした。)

対面はかなわず、父と子の互いを思いやる心情が謡われ、そしていよいよ資朝は刑場へと連れて行かれる。泣きながら父親の乗った輿のあとをついていく梅若。涙、涙の場面です。

いよいよ敷革の上に資朝が座ると、とうとう梅若が文字通りの土壇場に飛び込んできます。自分も連れて行ってほしいと訴える梅若に、驚きつつも、向き直って静かに諭す資朝。
梅若を再び阿闍梨に託し、さらに本間に、実はあの子供は・・と打ち明けると、無事に都へ返してやってほしいと頼むのでした。立場の違いを超えて、本間に向かって素直に心を開くかのような場面です。

これに対し、本間もはじめから分かってましたよ。田舎侍だと思ってそんなことをおっしゃるのでしょう・・と、無事に送り届けると固く約束します。

これに安堵した資朝は、従容として首をはねられる。厳しく緊迫した場面です。

合掌する資朝の背後から、とのけん自ら刀をふるい、シテツレは自らの首の代わりに掛絡を置いて、切戸口へとすーっと去る。笛の音に乗って、まるで魂魄の魂だけが、この世を去っていくかのようです。

とのけんも、資朝の首を自ら斬りおとした後の表情が、鋭く苦味走っていて複雑な心境を感じさせる。

(このとき子方は後見座に下がっていて、見所に背中を向けている。ワキツレは片手で持った刀で、シテツレの頭上で空を斬った。そして後見の和英が、遺体に見立てる紺色の小袖?を正先に持ってくる。)

資朝の死骸を、本間に頼んで引き取ることにする阿闍梨。死体に見立てられた小袖、資朝の首に見立てられた掛絡を、厳しい表情で見下ろすと、阿闍梨は供養のために、小袖で掛絡を包むようにして抱き上げ、後見座へと運ぶ。ワキ方の重い習らしい。遺体を運んでいるのだと分かる。この場面では、舞台の上も見所も、張りつめていた空気がさらに張りつめきって、凍りつくかのようだった。

本間は配下の者たちに休むように伝え、自分も休むとわざわざ口にする。彼にとっても、相当しんどい仕事であったことが察せられるのでした。ツネ2が梅若を都に帰してやってほしいと頼むと、情に厚い本間は、もちろんの事と応じます。しかも、自分の私宅で休むようにとまで言う。落ち着いた大人同士の会話の雰囲気です。

ところがしかし。

目の前で父親を殺された梅若は、これに全く納得していなかったのでした・・。本間がいなくなった後、なんと、彼を討つと言い出す梅若。

「本間を討たばやと存じ候」のところで、緊張がピークに達したのか、思わず台詞に詰まる尚哉キュン。後見座にいた欣哉が、コワイ顔をしてすかさず台詞を付けています。

(ちなみに「檀風」はワキ主体の曲だけに、膨大な量の台詞を中心とした戯曲的な成り立ちの曲で、尚哉キュンはもちろん、ツネ2もとのけんも、みんなよくこれだけ覚えたな〜という感じでした。ワキやワキツレの人物像を、ここまで丁寧に描きこんでいる曲は珍しいと思うけど、そうすると必然的に戯曲調になるのかな・・。)

勿論これには、(資朝を処刑するように命を下した)本当の敵は別のところにいるのだと、厳しく叱るようにして、考えを改めるように諭すツネ2。ところが、梅若の死んでもいいから仇を取りたいとの決意を聞くと、急に態度を変えて、自分も仇討に協力しようと言う。

しかし、これは・・。(←クリコのココロの呟きです。)

一応、仮にも、宗教者であるワキ(阿闍梨)が一瞬で考えを変えて、子方の暴走に協力して、仇討ちまで行うというのは、戯曲的な欠点というか、人物造形の破綻とまでは言わないけれど、ちょっと一貫性に欠くのではあるまいか。
しかも阿闍梨は、本間が自分たちを無事に都に返そうとしてくれていることさえ、知っていたにもかかわらず・・。(←そして本間さんは情に厚い、いい人だったのに。。。)

もしこれが現代劇だったら、自分の目の前で、実際に手を下した者こそ犯人である、という梅若の(赤ちゃんみたいな)主張は、それはそれで一理あって、『個人と組織』みたいな問題に肥大化しそうだけど(責任は7:3ぐらいかしら?)、この曲では単に、感情の問題なんです、これは!という展開です。

もちろんツネ2は、この多少無理のある、あるいは二重の不条理の印象を拭い去ってあまりある熱演で、非常に気合いのこもった様子で、もし失敗したらお互いに差し違えようとまで言う。

もしかすると、阿闍梨自身も理性では納得していても、感情的には愛しい(?!)梅若の父に自ら手を下した人物に、これ以上の恩義を蒙ることに潔しとしないものがあったのかもしれませんね。お坊さんというより、武士っぽい考え方だけど。。。

いずれにしても、ここが大きな転換点となって、登場人物の描写に熱のこもった異色のシナリオ能「檀風」も、フツウの?お能っぽい筋書きへと転調して、奇跡のエンディングへとなだれ込んで行きます。いいんだもん、だってこれはお芝居じゃなくて能なんだから!というところでしょうか。

夜の闇に紛れて本間の臥所に近づくと、疲れていた本間は明かりを消すのも忘れて寝入っているようです。
障子をそっと開けると、夏虫たちが飛び込んで行って明かりを消す。ツネ2と梅若は、それぞれ刀を手に取り、ワキ座のあたりで、目には見えない本間をメッタ刺しです・・!!このときとっくに舞台から退場していたワキツレからは、一言もありません。

重く厳粛な描かれ方だった資朝の死に比べると、あまりにもあっけなく形式的な本間の死に様です。日野資朝の死も無念だったろうけど、本間三郎の死は理不尽という気がする・・。
(ワキツレの「本間」に善人的な役柄を与えられていたのが、非常に興味深いのだけど・・。)

場面は目まぐるしく変り、阿闍梨と梅若が逃げ出すと、追手はすぐにもかかり、早鼓の囃子に乗って伝令のアイがやってきます。二人はなんとか、船着き場まで辿り着くのですが・・。

ワキツレの棹サシ(船頭)が(←この役もやっぱりワキ方)、棹を手に、すーっと滑るようにやってくるのが、ノンキな様子で、船上にいることを示していて、ちょっと面白いと思った。お能らしい超簡潔な表現です。

余程慌てていたのか、いま人を殺してきて、追われているから乗せてくれ、などと言うツネ2。船頭はもちろん呆れて、さらに離れて行こうとします。必死で、科人は自分一人だと訴える阿闍梨。梅若だけでも乗せてくれと言う。誰かを殺めてでも梅若だけは生かしたいというこのあたりが、阿闍梨の本心なのかもしれません。

船頭は橋掛かりの端の、揚幕のほうにまで行ってしまい、追手はいよいよ迫ってきます。

阿闍梨は進退窮まり、本当に困った!!と泣きださんばかりの表情で、あなただけはどうやって守ろうか・・と思案すると、もうこれしかないっ!!ということで、今熊野の権現に数珠を鳴らして必死で祈る。

これに軽口を叩く船頭に、このヤロウ後悔するぞと吠えるツネ2。(ここでも能らしからぬ激しい口調にちょっとびっくり。)

するとなんと、本当に東風が西風へと変わって、舟が戻ってくるのです・・!!

そして、いよいよシテの熊野権現の登場です。唐冠に赤頭、大飛出らしい出で立ちです。

・・・しかしやっと現れたシテの熊野権現は、さすがにちょっと、これはないんじゃないかな〜という感じで、動きに権現様の迫力もなく、謡はモゴモゴと何を言っているのか全く分からない・・。

ここでパキン!と違う能になってしまったかのようでした。
(もちろんワキと梅若は舟に乗り、無事逃げおおせるのです・・・。)

宝生流の長老として、義理で(?)決まったキャスティングなのだろうけど、率直に言って、折角の流儀の自主公演なのだし、舞台の完成度を優先してほしかったな〜、と思う。(章を起用した時点で、結果は分かってたわけだし・・。)
役者たちをはじめとして、前半の迫力が本当に素晴らしかっただけに、なおさら残念に感じられました。しかも日野資朝も本間三郎も救わなかったのに、阿闍梨の祈祷でやってきて、梅若は救ってやろうという権現様。。

しかしまぁそんなところも(どんなところ?)、お能らしいのカモ。収拾のつかない情動を、超越的な存在をもってきてあっさりと鎮めてしまう。一方で、直面での生身の役者ぶりがツネ2もとのけんも素晴らしく、戯曲としてのお能の可能性と、難しさを感じさせた一番でした。スゴーク面白かったです・・!

第二回公演は、立ち役にはワキ方しか出てこない新作能とか、ど〜でしょうか(笑)。



posted by kuriko | 22:30 | 能・狂言 | comments(2) | trackbacks(0) |
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