御奏者番 林望
御使番 浅見重好
上田公威
小謡
四海波 観世清河寿
居囃子
老松 観世清河寿
福王茂十郎
東北 金春安明
高砂 金剛永謹
福王茂十郎
大鼓 佃良勝
小鼓 観世新九郎
笛 一噌庸二
太鼓 小寺佐七
舞囃子
弓矢立合
観世清河寿
金春安明
金剛永謹
大鼓 佃良勝
小鼓 観世新九郎
笛 一噌庸二
狂言
棒縛
シテ 野村萬
アド 野村万作
野村万蔵
半能
石橋 大獅子
シテ 観世銕之丞
ツレ 観世喜正
ワキ 森常好
大鼓 亀井広忠
小鼓 幸清次郎
笛 松田弘之
太鼓 金春國和
地頭 岡久広
※2014年4月5日(土) よみうり大手町ホールにて。
というわけで、よみうり大手町ホールの開館記念能に行ってきました〜!
シテ方三流儀の家元揃い踏み!国宝兄弟の棒縛!てっつん&喜正の石橋!と豪華な番組でしたお〜。
でも、あれ、大手町ホールって、以前からなかったっけ??と思っていたら、それは日経ホールのことだったのであった。。
で、まずは開館を記念して、よみうり大手町ホールのすぐそば、江戸城のお正月でかつて行われていた『謡初』の儀式からです。(番組に記載のシンペー(←松岡心平)の解説によれば、『現代的再現』とのこと。)
ホールのステージには、さらにその上に舞台が敷かれて、鏡板、短い四本の柱や橋掛かりなども造られていました。大手町ホールに常設の「備品」としての組立て式舞台とのことなのですが、もちろん真新しく、白くてぴっかぴかです。
お調べが済むと、侍烏帽子に素袍姿のキヨを先頭に、ずらずらと短い橋掛かりを能楽師たちがやってきました・・!
考えてみるとキヨが小刀・侍烏帽子つきの素袍姿というのは、ちょっと珍しいのカモ??
舞台上手からキヨ、火星のプリンス、いやキングか(←どちらにしても失礼。←金春安明)、エイキンとずらりと並び、さらにその背後には三人ずつ、それぞれ流儀でお揃いの大紋ふうの素袍を着た地謡が並んで座る。まるで親分が子分を引き連れやってきたかのようで、ちょっと面白い光景です。
ちなみに、観世流は武田宗和、関根知孝、岡久広、金春流・本田光洋、辻井八郎、金春憲和、金剛流・豊嶋三千春、種田道一、金剛龍謹。といった具合。地謡は家元の後見(物着)を兼ねるので、流儀の精鋭(たぶんね?)が選ばれているらしい。
そしてそこに、しずしずと橋掛かりをやってきたのは〜、なんと「御奏者番」のリンボウ先生でした!メガネも取って凛々しい長裃姿です!
目付柱の付近で、全員平伏するキヨたちに「謡いませい!」とびしっと告げる。リンボウ先生はなかなか役者的なセンスもあるらしく、厳めしい風格を漂わせてヨイ感じでした。
キヨはこれに対して、間髪入れずに平伏したまま「四海波」を力いっぱい謡う。実はクリコ、何年か前にも横浜能楽堂で同じ「謡初」の再現を観たことがあるのだけど、これは何度観ても観世大夫は大変そうである。キヨは少しでも声を響かせようと、お顔を真っ赤にして謡っていました。
ちなみに言うとリンボウの最初の出番は、この「謡いませい」の一言で終わり、すぐに引っこんでしまいました・・。
この小謡が終わると、切戸口から素袍姿の茂十郎、囃子方がでてきます。(あれ、囃子方は最初からいたっけかな・・?思い出せない。)囃子方は「翁」の時と同じく、侍烏帽子に素袍姿なのですが、なんと地謡座に座ります。素袍の袖を脱ぐという形にはしないで、下からちょっと手を出す形にして道具を構えていました。
茂十郎の待謡から、今度はキヨの「老松」で居囃子のスタートです。茂十郎はこの後、エイキンの「高砂」でも待謡を謡っていたのだけど、ちょっぴしのサワリの部分だけで、このためだけにわざわざ東京まで来たのであろうか。。
しかし居囃子ってずっと聴いていると、あれ、私いま何してるんだっけ・・?という気になってくるのはクリコだけでしょうか。。耳に馴染んだキヨのヨイお声、火星王の不思議な透明謡を聴いていると、なんだかトリップしてくるような・・。金春流の地謡は、黒川能を思い出させる独特なクセを感じる。金剛流の謡は、単なる印象だけど、やっぱり今では観世流に近いような・・。
真新しいホールは音響にもこだわって作られたようですが、やはりセットの能舞台は屋根がなく天井が高いので、音がちょっと上に抜ける感じかな。
ちなみに、キヨの「老松」が終わると、茂十郎と太鼓の佐七は一度引っこみ、エイキンの「高砂」で、また切戸口から出てきていました。他のメンバーはずーっと座りっぱなしなのだけど、そこは能楽師なので(?)慣れたものでしょうか。(実際には、退場の時に、あ、足シビレてる・・という人もいましたが・・☆)
さて、この三流儀による居囃子が終わると、再び御奏者番のリンボウ先生と御使番の重好、公威が切戸口から登場します。重好は恭しく白い着物を捧げ持ち、公威は葛桶を持っての登場です。
で、リンボウ先生がワキ座付近で葛桶に座り、この厚手の白い着物を与えるのを、キヨを最初に大夫たちは順番に進み出て恭しく受け取る。
クリコは「な〜に、あの『かいまき』みたいなの?」と思っていたのだけど、あれは浜松時代の徳川家康公御所縁の「白綸子紅裏の小袖」じゃ〜い!ということらしい。ナルホド、キヨ(観世流)だけ襟のところの紅裏が強調されていて、ちょっと目立つようになっています。
キヨも講演で好んでよく話している歴史秘話?なのだけど(←自称・観世清河寿研究家)、徳川家康が三方ヶ原の戦いで大敗した時、「ふて寝」していた家康が投げ与えた白綸子の小袖を、側近の観世大夫が壺織に着て「弓矢立合」を舞って慰めた・・というめでたい(?)故事にちなんでいるらしい。
というわけで、三人の大夫たちはそれぞれ自分の子分・・、いえ地謡兼後見のもとに戻り、この時服(小袖)を素袍の上から三人がかりで壺織に物着させ、いよいよ「弓矢立合」です・・!
今度はリンボウ先生も葛桶に腰かけたまま、きりり!とその様子を見守っています。
「釈尊は 釈尊は 大悲の弓の智慧の矢をつまよつて 三毒の眠りを驚かし・・」
で、これがも〜う、三流儀の地謡は見事にばらんばらん、白い小袖をまとった三人の大夫たちの舞もバラバラ?!です。それでいて、狭い能舞台でそれぞれ主張しつつ、ちゃんとぶつからず全体にバランスがとれている絶妙さは、さすが大夫たちの芸でしょうか。キヨはキヨのまま、火星王は火星王のまま。三人同じ型で舞うというより、三人バラバラで一つの型とでもいうか・・。
先日の「能と文楽」公演で、黒子たちがそれぞれ違う動きをすることで、一つの人形を動かしていたのを思い出しました。大夫たちは皆、対照的に白い小袖姿でしたが・・。
この舞が終わると三人の大夫たちは、またそれぞれに後見に手伝わせて小袖を脱ぎ、元の姿に戻ります。
そしてここからちょっと面白いのが、リンボウ先生はまず恭しく進み出たキヨに、ご褒美にと持参の裃の肩衣を与える。続いてなんと、遠山の金さんばりに!(←みんな知ってるかな?)自らの肩衣も脱いで!投げ与え、観世の地謡(久広)が拾い上げていました・・!御使番の二人も、ばさりと肩衣を取っています!(投げてはなかったけど。)
たしか〜これもキヨがどこかの講演で話してたかもしれないけど、観世左近(二十四世)の「能楽随想」によると、江戸城でこの謡初があった頃は、終了時のご褒美に将軍や御三家や大名たちが自分の裃の肩衣を観世大夫(だけ!)に投げ与え、その後、観世屋敷に各大名家からお使いが来て、「纏頭」(御祝儀)と引き換えに持って帰っていたらしい。この御祝儀だけで、観世大夫の家は一年食べていけたそうな。だけど、幕末の動乱期にはさすがにそんな余裕は無くなって、観世屋敷には虫に喰われた肩衣がいっぱい残されていたとか・・。夢の跡ですな・・。
ちなみにこの「能楽随想」には、江戸時代に行われていた「謡初」の次第が詳しく掲載されていて、左近は「いかに壮麗なものだつたか」とか書いているけれど、とにかく延々と盃事が続き(十一献まである!)、儀式とはいえクリコだったら退屈すぎて気絶しそうな長さである・・。(←その前に、そこに居られないだろうという話もあるケド。)
どうも将軍家、大名家の献酬と式楽(能楽)のリンクによって、江戸城の謡初は行われていたようですが・・。また家光以後(?)の謡初は、観世流・喜多流が常勤で、他の三流儀は輪番で参加していたらしい(from能楽大事典。my friend..)
(←そういえば、リンボウ先生が三人の大夫たちに白小袖を渡した後、懐に入れていた紙をぱらりと舞台に投げて、これをリューキンが進み出て恭しく拾い上げていました。あれの意味だけ分からなかったな〜・・と思っていたけど、小袖と一緒に(ご褒美の?)目録が与えられたとあるから、それかもしれない。)
(←最後に肩衣を脱いで観世大夫に与えるというのも、「大阪夏の陣の折、家康公が云々・・」の逸話があるらしいのですが、もうこれは割愛。笑。)
そして肩衣も脱いで紋付と袴姿になったリンボウ先生が、正先に進み出て平伏し彼らしく明快な口調で、儀式が滞りなく済んだことを報告かつ宣言する。こうしてこのホールの謡初が、めでたく完了したのでした〜。
で、休憩を挟んで、人間国宝ブラザーズによる狂言「棒縛」です!
これが、またまたですね〜、なんていうのでしょう、面白いというかハラハラするというか。何と言っても、お二人ともとっくに80歳も超えている超高齢者なわけで(1930年生まれと、31年生まれの年子なの♪)、それで演目が白眉の「棒縛り」!です!
太郎冠者(萬)は両腕を棒に縛られ、次郎冠者(万作)は後ろ手に縛られたまま演技するので、とっても大変みたいなのですよね〜。
・・なんて、クリコの予断など何の意味もなく、実体験によって鍛え上げられた身体能力というのは、やっぱり凄い!です。
呼吸こそ多少はおつらそうでしたが、萬は両腕を棒に縛られたまま、あの自由自在?!の動き、万作は後ろ手に縛られたまま、全く身体のバランスを崩さず起居に不安を感じさせません。実は意地の張り合いもあったでしょうが・・(笑)。
それでいて、「酒が飲みたいの〜」と顔を見合わせて笑うところなんて、年齢を超えた無邪気さ、純粋さを感じさせて、いくつになってもいたずらっ子兄弟の輝きを感じさせました・・!そういえば、お二人の本名は「太良(たろう)」と「二朗(じろう)」だったなぁと思ったり。
(ついでに言うと野村四郎は本名で、万之介の本名は悟郎である。三郎はどうなさったのだろう。。?)
ここまで来ると、無心というべきか必死というかべきか、自然体と至芸が渾然とした境地を感じさせます。大マジメに、「ガラ、ガラ、ピーン!」と酒蔵に侵入!あの手この手で、お酒になんとか喰らいつく!
喜んで謡ったり舞ったりしていると、そこにご主人さまが帰ってくるのですが・・。万蔵はなんだか、このBIG2の間に居て違和感の無い貫禄というか、風格が出てきた感じでしょうか。(←余計なお世話ですね。すみません。。)きっとこの困った老僕たちを、なんだかんだ言っても大切に家に置いていたのでは?と思わせる丁寧なご主人さまぶりでした。もちろん、口ではぷりぷり怒っていたのですケド。
ご主人さまに怒られ、二人は「お許されませ、お許されませ・・」と、すたこらっといずこかへ逃げていきます。。。
そ〜いえば、能の場合は橋掛かりの向こうは死後の世界だけど、狂言の場合は永遠にループしていく日常(生の世界)なのではあるまいか。なんだかちょと、そんな気がしたのでした・・。
続いては、てっつん&喜正の「石橋」です!
囃子方、地謡が登場すると、紅白の牡丹が付いた一畳台が運ばれてきます。
・・・が、このボタンの花というか、木の枝ぶりがちょと今イチ。。。近くで観すぎたせいかもしれませんが。。単なる想像ですが、本職でない美術さんが「こ〜んなもんかしら?!」と作ってみちゃったかのような雰囲気でした・・。
ま、それはさておき、立派な坊さん姿のツネ2が現れ、「もう石橋まで着いたし、一休みしたら渡ろうっと」みたいなことを言う。(←実際にはもっと厳めしい表現で。)
そこでたちまち、獅子の咆哮の如く勇壮な乱序が奏でられると、まずは白獅子の登場です!ノシノシと貫禄を感じさせてまずやってきたのは、てっつんでした。
一畳台の上から、さっ!と揚幕のほうを振り返って、赤獅子を呼び出します。てっつんのシルエットは、全体としてなんとなく丸っこいので、この時ミョーにライオンぽかったです。
闊達な様子でやってきたのは、赤獅子の喜正です。親子というより弟でしょうか。二頭の獅子は遊び戯れ、型をビミョーにずらしてあるのが、それぞれに主張があるようで面白い。それにてっつんの獅子は、やっぱりあっつんの獅子に似ているような。。当り前だけど。。いや、あっつんがてっつんに似てるのか。。
獅子たちは存分に遊び戯れると、渓谷の涼しい風に吹かれてくつろぎ、そしてまた遊び始める。かつてはこんなふうに、江戸城の大広間で飛び跳ねていたのでありましょう(←想像です)。それが今ではセキュリティもばっちりの、オサレなインテジェンスビルの1フロアに・・・。
こうしてめでたく開館記念能は終わったのでした〜!
ちなみに秋にもまた開館記念能があるみたいで(チラシが配られていた)、9月23日(祝)だそうで〜す。
宝生流、喜多流が登場します☆