能楽鑑賞などなどの記録。  
第二十回 能楽座自主公演 ―二十回記念公演―
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舞囃子
高砂
    観世銕之丞

大鼓 山本哲也
小鼓 飯田清一
笛   松田弘之
太鼓 観世元伯

小舞
金岡 野村万作

独吟
野宮 近藤乾之助

一調
張良
   福王茂十郎
太鼓 三島元太郎

独吟
平家 野村萬

新作舞囃子
智恵子抄
智恵子 大槻文藏
光太郎 梅若玄祥

大鼓 山本哲也
小鼓 飯田清一
笛   松田弘之

狂言
抜殻
シテ 茂山千五郎
アド 茂山正邦

半蔀
シテ 梅若玄祥 (代演)
ワキ 宝生閑
アイ 茂山正邦

大鼓 安福光雄
小鼓 大倉源次郎
笛   藤田六郎兵衛

地頭 観世銕之丞


※2014年8月31日(日) 国立能楽堂にて。


というわけで、能楽座自主公演に行ってきましたぁ〜!

例によって能楽座自主公演は、特にコレといって宣伝も告知もされていなかった印象で、ガラガラというほどでもないけど、脇正面などはスカスカという感じ。「二十回記念公演」というには、いささか寂しい見所です。

・・・素朴なギモン的に、それで結局、自主公演っていったい何のためにやっているのだろう?やっぱし思い出作りかな?

まぁそれはヨコに置いておいて、どうぞ名人上手の至芸をご堪能くださいね。というわけで、てっつんの舞囃子「高砂」から。

囃子は奔流の如く時に緩急あり、てっつんは貫録のある鯉魚の如く(?!)、そんな高砂でした。続いて、万作、乾之助、元太郎に萬とズラーリ。万作は所作のキレがすごく、萬の謡はイキがすごい。長年続いた(そして終わった?)兄弟喧嘩にも、意外な効用があったのかもしれません(?)。

乾之助の独吟は結局、助吟の金井雄資もぜんぶ一緒に謡っていて、しかしさすがに遠慮しつつなので、なんていうか、連吟というより合唱?みたいな雰囲気になってました。あるいは、綺麗な小鳥が二羽謡っているとでもいうか・・。なんだか乙女チックな雰囲気の「野宮」でした。。

「新作舞囃子 智恵子抄」はさすがに耳目に新鮮で、面白く観ました。詞が高村光太郎ぐらいだと、日本語が分かりやすく美しく、情景も頭に描きやすい。

詞章は『風にのる智恵子』と『千鳥と遊ぶ智恵子』が使われていたようです。「狂つた智恵子は口をきかない ・・・」それから、光太郎が智恵子を詠んだ一首。

光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき

だけどもし高村智恵子も物狂いの一人として数えるならば、これはなかなか、能楽がもっとも得意とする(?)表現でありつつ、世阿弥の言っていた(便宜的/情緒的な)『物狂い』とは違う、新しい狂女物ではなかろうか。(←高村智恵子は統合失調症だったらしいので。)

これはちょっと、今後の展開にに期待大かもしんない。しかしいわゆる『能舞』以上に仕立てるのは、難しいかもしれない。鬱病が脳の風邪なら、「人間商売さらりとやめて もう天然の向うへ行つてしまつた」統合失調症は・・・、何なのだろう。

それに、光太郎と智恵子の配役も、当初予定と違って光太郎:GS、文蔵:智恵子で、これもよかった(笑)。ぽっちゃりとした狂女というのは、どうも悲壮感が足りないですからね。静かに狂う智恵子を、光太郎も静かに見つめます。

千五郎は、半分眠りつつ鑑賞。。(ごみんなさい)。でも千五郎(と七五三)って、ヒジョ〜に上手いとクリコも思う。

で、いよいよ「半蔀」だったわけですが・・。

なんと幽雪は休演で、代わりにGSだったのでした。。。・・・。う〜ん、坂本冬美コンサートに行ったら、由紀さおりが出てきた。ぐらいの違いはあるカモ。「似たようなもんでショ」と言えば、そうかもしれない(?)けど。。。

幽雪はもう退院はしてるけど、さすがに舞台は控えることになったとかで、病を得た能の妖精は、まいにち何を食べて療養しているのだろう・・。やっぱし森の綺麗な朝露とかかしら。。クリコの想像では、「松風」とか「求塚」の前シテ/ツレみたいな乙女たちが、それを毎朝集めにいくのだけど、まぁそんなことは流石に無いであろうね。。

というわけで、前シテのGSがやってきたのだけど、GSの運ビって、どこかヘンじゃないかなぁ〜?役柄によっては気にならないのだけど、膝も悪いのであろうか。ミョ〜にキビキビとした歩みの夕顔の君です。

後シテは濃い紫の長絹に、明るめの鬱金色の大口。・・あの鬱金色は瓢箪をイメージしてるのかしら。。

う〜ん。。。でもめちゃめちゃ率直な感想を言って、前シテはまだ良かったけど(?)たとえば初めて能を観る人で、あの後シテを観て、素直に「ああ、美しいな」と思える人ってどれぐらいいたのかな。。。という気もした。。

みんな無意識のうちに、すごーく脳内修正して観てるんだと思う。。紋付で舞ってる時のほうが、むしろ何とも思わないのだけど。。

閑のほうは、姿勢もキリリとして、とっても綺麗。それにやっぱしエライな〜と思った。夏の間、疲弊と自堕落の両極端を繰り返していたクリコは、ずーっとあっちにもぞもぞ。こっちにもぞもぞ。と動いていたのだけど、閑はびし!と座りつつ、シテのことを時おり、じぃっと見つめています。夏休みの宿題は、7月の間に全部終わらせてそうな雰囲気です。

もちろん思い出の世界に浸っている夕顔の君は、夏の終わりなどお構いなしです。こ〜んな、こ〜んなふうに光源氏様がお手紙書いてくれてさぁぁぁと、熱心に自作自演していたのでした☆

というわけで、今回は久々なので、感想というより単なる雑談でおしまい。。。




 
posted by kuriko | 07:08 | 能・狂言 | comments(4) | trackbacks(0) |
八雲と杜若と蛙男。
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FROGMANがけっこう好き(笑)。「小豆とぎ橋」といえば、「杜若」だけど〜。。

http://www.youtube.com/watch?v=ARl8fa3dua0


なぜ「杜若」が禁曲なのかと長年考えてきたんだけど(嘘)、「杜若」といえば、八橋のかかる水辺の光景を極楽にも見立てるのが後場なので、「小豆とぎ橋」の下にいる亡者たちは、それがムカつくんじゃ〜ないかなぁ?

で、今日(昨日)は、観世会で「雲林院」観ました〜。
キヨの「龍田」も、スゲかったですよん。

posted by kuriko | 00:52 | 番外 | comments(0) | trackbacks(0) |
観世会定期能九月
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龍田 移神楽
シテ 観世清河寿
ワキ 宝生欣哉
アイ 大藏千太郎

大鼓 國川純
小鼓 大倉源次郎
笛   一噌庸二
太鼓 金春國和

地頭 野村四郎

狂言
鳴子遺子
シテ 大藏彌太郎
アド 宮本昇
   大藏教義

雲林院
シテ 梅若万三郎
ワキ 工藤和哉
アイ 吉田信海

大鼓 柿原弘和
小鼓 幸清次郎
笛   杉市和
太鼓 小寺佐七

地頭 坂井音重

仕舞
老松   関根知孝
生田敦盛 浅見重好
柏崎   観世恭秀
善知鳥  岡久広

葵上 梓之出
シテ 寺井栄
ツレ 坂井音晴
ワキ 大日方寛
アイ 小梶直人

大鼓 亀井実
小鼓 幸信吾
笛   内潟慶三
太鼓 林雄一郎

地頭 木月孚行

※2014年9月7日(日) 観世能楽堂にて。


というわけで、観世会定期能に行ってきましたぁ〜!

観世能楽堂のエントランスには、ムシ除けスプレーと松ぼっくり、そしてデング熱注意のWarningがセットされておりました。。可愛いと言えば可愛く(?)、シュールと言えばシュールなディスプレイです。。それに初番がキヨだったにしては、人出もイマイチだったような。。
(しかしマジな話、先週末あちこち出かけていたら、クリコも蚊に刺されました。。。今年は全然刺されてなかったのに、何故いまになって。。まだ若いということであろうかね。。)

で、まずはキヨの「龍田」から。

一畳台に小宮の作り物で、龍田明神の社殿が表わされているのだけど、台掛の模様が波模様だったのは、龍田川でしょうか、川面に張った薄氷でしょうか・・。

欣哉たち旅の僧が(経典を諸国におさめまくっているらしい)、「龍田越え」からこの龍田川辺にやってきて、さっそく「よっし龍田明神にお参りしよう!」と意気込みます。

もちろん、そこにキヨの声がすぱーん!と、「その川を、渡ってはいけません!」と呼び掛けてくるのです・・!驚く欣哉たち。姿を現す前シテ。

今回は小書もついているので、前シテは白練壺折の上着に、木綿四手の付いた榊の枝を持ち、より巫女さんっぽい雰囲気。そして腰巻にした縫箔(?)にはそれは大きな紅葉が、鮮やかに散らされています。白練の純白と紅葉の対照に、「龍田」の世界の色彩が伝わってくる。これも一種のサブリミナル効果でしょうか。(←どんだけノンビリしたサブリミナル刺激なんだ)

そしてシテは、いささかくどくどと(?)、何故この季節に龍田川を越えてはならないかを語る。龍田明神では紅葉が御神体なので、それを踏みつけにするなんてもってのほか!というわけですね。

前シテの語り口は、明瞭に力強く、渋みというサビも利かせたキヨならではの雰囲気。たとえ相手がお坊さんでも、『うちにはうちの流儀ちゅうもんがありますねん』と言い募る、気高さと激しさを感じさせます。キヨが能楽講座で、龍田姫は女神なんだけど、女神らしくないくらいに強く演じる、と語っていたのを思い出す。

え、でも、龍田川凍ってるし・・とワキ。(←なんと、川面が既に凍っているらしい。)凍っててもダメ!とシテ。

どういう回り道なのか(?)、結局シテはワキを龍田明神の社殿へと案内してあげるのですが、シテがくるりと舞台を回れば、もうそこに到着しているのがお能の世界です。そこにはただ一本、真っ赤な盛りの紅葉の木が残されているます・・。巫女姿で、榊を手に拝礼するシテの姿が美しかったです。

その不思議な巫女はやがて、自分自身が龍田姫だと名乗ると、社殿(作り物)の中に消えていくのでした・・。

そして意外と(?!)いいカンジだな〜と思ったのは、今回のアイ語りで、あの独特なクセのある口調で朴訥としつつも、ピリピリと張りつめたものを感じさせます。

やがて待ち受ける僧たち、そして夜神楽を奏でる神職たち双方の前に、後シテ・龍田姫がその姿を現すのです・・!

引き廻しがゆっくりと降ろされ、腰かけたシテの深紅の舞衣がぎゅっと濃縮されて観え、一瞬血の色かと思うほど鮮やかでした。紅葉の散りばめられた白地の柄大口に、銀の摺箔。天冠には真っ赤な紅葉が燃えていて、増(?)の面の冷えびえとした美貌がいっそう引き立ちます。キヨはこれでよく足元が見えるな〜と思うほど、三日月のように細長で、冴えざえとした眼の女面です。そしてキヨの声の素晴らしいこと!
(←「みえないけど、やってる。」ということなのかもしれない。)

詞章によると、劫初からこの世にいたとは、龍田姫も若く観えて相当古い神のようです。地謡でも繰り返し、繰り返し紅葉の赤が語られ、さらに川面が凍りついて、紅色をけざやかに照らします。足元に張りつめた氷を、自らに驚くといったふうに眺める龍田姫。(ちょっと『アナ雪』っぽい世界か?)強く謡い上げる詞章の中に、「美しや」という直接的な表現があって、ちょっと珍しいと思う。

女神が社殿から降りて舞う神楽では、あの独特かつ規則正しいリズムが鼓動を思わせ、シテがぐっと腰を落とすような型もあって、土着的というより地にたぎるような血脈を感じさせる。「移神楽」の小書はとにかく神楽が長いので、巫女さんが神憑りになって、夜通し舞っているような静かな熱狂がありました。

空も白む頃、シテは橋掛かりに出ると鶏が時を告げる声を聴く。夜が明けるのを、惜しむかのような女神の横顔が印象的です。そして片袖を大きく翻して一度被いたかと思うと、降りしきる紅葉の中を、女神の御姿は消えて行ったのでした・・!!

で、狂言は飛ばして(ゴハン食べてました。。すみません。。)、「雲林院」です。

「龍田」⇒「雲林院」の流れは、やはり和歌つながりでしょうか。

ちはやぶる神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは

とは、在原業平の一首です。この和歌にも、紅葉の激情・・みたいなイメージを感じさせます。(業平は、高子邸の屏風の絵を見て、この一首を詠んだらしい。)

ワキの工藤和哉は、子供の頃から伊勢物語が大好きで・・というにはいささか年を取り過ぎている印象ですが、蘆屋の公光はお供を二人も連れてきて、(道行の部分の謡はワキツレに任せちゃったりして)それなりにエライ人なのかもしれません(?)。業平と二条の后の夢を見て、ここまで来ちゃった!・・というのは、単に無邪気なおじいさんなのかもしれませんが・・。

しかし後見座に笠を置く時にちょっとよろけたりして、少し不安を感じさせる展開です。そして記念に花を手折って帰ろうという公光に、声を掛けてくる人物が現れます・・。

万三郎の前シテは、おじいさんでもスマートなプロポーションで、優男の業平に似つかわしい立ち姿。さすが業平の老いた姿・・を思わせる、ただ者ではないセクシーじ〜さんの雰囲気です。そして桜泥棒をしようという公光を咎めて、風雅な遣り取りを重ねます。この辺り、幼い頃から伊勢物語に慣れ親しんだというだけあって、公光も結構なインテリらしい。

夢に見た二条の后の(かつての)在所にやってきたという公光に、シテはしばし待て、と言い残して消えていきます。この時、橋掛かりを去っていくシテの姿は、どことなく寂しげでした。

アイ語りの後、再び現れた業平は、かつての平安朝美男子の姿です。品のある中将(面)に初冠、ごく薄い水色の狩衣に、淡い萌黄色の指貫という取り合わせだったのですが、配色が繊細過ぎて現代の能楽堂の強い照明のもとでは、上下がほとんど同じキミドリのように観えてしまって、これは残念。万三郎にしては、無難なコーディネートでまとめた(かのように観える)オサレ初心者の雰囲気です。

とはいえ、勇壮な武将でもなく、凄愴な亡者の姿でもなく、優美な平安朝(初期)の優美な貴公子・・を全く衒いなく舞いきったのは、見事なものでした。
(←クリコはところどころ寝てたけど・・。ごみん。。)
(←でもちょっと、面がやたらクモリがちなのが気になったけど・・。ああいうものなのであろうか。)

初番の情熱的な神楽に対して、閑雅な序之舞で、紅葉と桜、なかなか番組の妙を感じさせます。そして業平と高子が駆け落ちした時、桜の花びらの散った芥川を渡って行ったとか・・。このとき高子は、『紅葉襲』の衣を被いていたと・・。男姿であっても序之舞というのは、やはり懐旧の舞になるようです。

キヨと万三郎、さながら平成優男対決(中高年部門)の二番だったのでした。(←余計なお世話ですね。)勿論ただ優美なだけでは、サマにならないのが能の舞なのですケド。

すっかり夢見心地になった公光も、お供に助け起こされ帰って行きました。。

そしてこの日は都合により、「葵上」は観られませんでした・・。ごみんなさい!

で、観世会定期能は、来年3月までは松濤の観世能楽堂で、5月から「梅若能楽学院会館」での開催らしいでーす。ちなみになんと2015年は、別会が無いとのことで〜す。

おしまい!

 
posted by kuriko | 22:43 | 能・狂言 | comments(4) | trackbacks(0) |
銕仙会定期公演9月 その1
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采女 美奈保之伝
シテ   観世清河寿
ワキ   宝生閑
ワキツレ 宝生欣哉
      大日方寛
アイ   山本則重

大鼓   柿原弘和
小鼓   成田達志
笛     藤田六郎兵衛
 
地頭   観世銕之丞

狂言
月見座頭
シテ   山本東次郎
アド   山本則俊

鵜飼 空之働
シテ   野村四郎
ワキ   殿田謙吉
ワキツレ 則久英志
アイ   山本凛太郎

大鼓   國川純
小鼓   田邊恭資
笛     松田弘之
太鼓   三島元太郎

地頭   山本順之

※2014年9月12日(金) 宝生能楽堂にて。


というわけで、久々に宝生能楽堂に行ってきました〜。

見所のイスが、全て新調されていてびっくり!あの座席番号を隠してしまって、いつも来場者を混乱させていた(笑)白カバーもありません。これはうれしい〜。いつも座っていると、腰が痛くなってきそうだったので(笑)。

さて、この日の銕仙会は、キヨの「采女」、東次郎の「月見座頭」に四郎の「鵜飼」と、さながら半期に一度の豪華別会の趣き。もちろん、素晴らしい公演となりました♪

ちょうどいわゆる「スーパームーン」の時節で、番組にサブタイトルがあったとしたら、『月はぜんぶ見ていた』という感じだったでしょうか。あ、それとも『わたしたち、水で死にました』かな・・。「采女」も「鵜飼」も、シテは水死なので。。

それに「ありがとう、元章」スペシャルでもあったようです。「観世元章の世界」所収の山中玲子「元章時代の小書とその演出意図」によれば、有名な「美奈保之伝」はもちろん「空之働」も元章考案の演出で、「空之働」のほうがよりそのままの形で伝わっているらしい。夜能で、狂言も含めて大曲が三番も打てるのは、やっぱし元章のおかげかな?ま、「御分家」を作ったのも元章と言われているケド・・。

というわけで、まずはキヨの「采女」から。

ワキは閑だったのですが、この日は閑も絶不調でした・・。夏の終わりというのは、お年寄りには逆にこたえるのかしら・・。常座に立った時から左肩が下がっていて、声に力が入りません。キヨとの掛け合いの時も、一度絶句したりして、欣哉が助けていました(ワキが絶句するのは珍しい)。座っている横顔が心なしか、ちょっとしょんぼり。。?の閑だったのでした。

そのかわり、と言ってはなんですが、この日もキヨ本当に素晴らしかったです・・!

銕仙会で客演する時は、どうもキヨはいつも以上に舞台の上で『家元風』を吹かせたくなるみたいなんだけど、キヨの完璧主義というか、無謬主義というか、とにかくキヨ節が炸裂!していました・・!

奈良観光に来た閑たちに「呼掛」で、声を掛けてくるのですが、気品のある着流姿に、重く風格を感じさせる語り口。何はさておき、春日明神よりもまず最初に、猿沢池を見てほしいと案内します。

池を前に、シテの様子が少しずつ変化していくのが分かります。はりつめていく、とでもいうか。昔、この池に身を投げた采女がいたので、弔ってやってほしいと語る。

猿沢池から遺体が引き上げられた時の自らの様子を語ると、自分こそがその采女の霊なのだと告げて、やがてくるくると、水底に沈んでいきます。この時の緊張感が、生死の境というか、命を絶ったまさしく現場というか、そんな怖さを感じさせました。

きびきびとアイ語りをするのは則重。かつて存在した采女たちの物語です。僧侶たちは、猿沢池に向かって、回向するのでした・・。

てんてん・・と水が揺蕩うような囃子の中、現れたのは、紺の衣を被いた采女の霊です。まだ水底にいる態でしょうか。一の松あたりで、一度下居して被きを取ると、読経の功徳か、ようやく浮かび上がるように立ち上がります。

後シテの面は解説によると「小夜姫」で、白さが際立ったちょっと怖い感じの面です。成仏して龍女になったのだから、ということでしょうか。深緑の長絹に赤い大口。髪が二すじ乱されています。「美奈保之伝」の「美奈保」とは「水穂」のことで、水に漂う女性の髪の毛が、稲穂を連想させるためだとか・・。

そして「月に啼け・・」と、序之舞がそりゃも〜う、スゴかったです・・!静謐で、端正な気品に満ちているのだけど、舞、つまり型こそが感情であり、魂の振幅の表現なのだ。そんなキホンを教えてくれます。

橋掛りから水面を眺めるあの気色は、ただ懐かしむというのでもない、えも言われぬものがありました。思えば水というものは不思議な結界で、入る時は誰でもたやすく破ることができ、ひとたび飲まれれば決して此岸には戻ってこれません。。

美奈保之伝の心得は、水面に浮かぶ態で、決して拍子を踏まず、袖も返さないこととか。采女の霊は、今やその水と同化することで、心にさざ波も立てません。あまりにも長い時間が、彼女を変えたのでしょうか。今度はただ静かに、水底へと帰って行ったのでした・・。

続いて、東次郎の「月見座頭」です!

いやもう、これも素晴らしかった。。お月見、そして障碍者への暴力という後味の悪い結末が、妙に現代とリンクしているのも狂言の強さでしょうか。

杖を手にした東次郎が、ひたひたと、杖をつきつつ橋掛かりをやってきます。東次郎家の座頭は、沙門帽子に長袴の、一つ位の高い匂当姿です。

静かに伏せられた目と、小さな虫たちの声を愛おしむ東次郎の姿がそれは上品で、悲しげで、何かの諦観すら感じさせます。気品ある人の、気品あるが故の悲しみとでもいうのですかね。座頭に月は見えないが・・と。

つづく。





 
posted by kuriko | 22:41 | 能・狂言 | comments(2) | trackbacks(0) |
銕仙会定期公演9月 その2
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承前。

そこに上京の男がやってきます。二人が出会う前、下京の座頭と上京のこの男と、それぞれが同時にそれぞれの心理を口にしている場面は、狂言ではよくある手法なのですが、人間とはつくづく孤立した生き物だな・・と思わせました。

互いに盗作した(笑)和歌など披露しあって、一見うちとけたようにも観えたのですが、結局は通りすがりというか、お互いに月夜のただの戯れだったのかもしれません。座頭が座興にと披露した見事な小舞は「弱法師」で、盲目の人が、盲目の人を真似る、どこか矛盾を感じさせる光景が、(そこが、ちょっとカーヴァーの短編「大聖堂」を思わせる面白さでもあるのですが)「月見座頭」にはフラクタルに散りばめられているようです。

それでは、と互いに気持ちよく挨拶をして、橋掛りをいく上京の男の心に、ふと魔が差します。今度は楽しく語らうのではなくて、一つ喧嘩を仕掛けてみよう、と。

その男は、座頭に突き当たり、言いがかりをつけるとぐるぐる〜っと振り回して突き倒し、行ってしまう。「卑怯者!」と叫ぶ東次郎の声が、今にも泣き出さんばかりに悲しげです。

舞台に手をつき、指先で杖を探す東次郎のあの繊細な演技。最後は、やはり杖だけを友にして帰って行きます。「くっさめ」が入ると、悲劇の主人公もやはり人間なのだと、少し終曲がまろやかに。しかし現代人も引きつける、複雑な余韻を残す舞台となったのでした・・。

そして四郎の「鵜飼」。

こちらも素晴らしく、というより、非常に面白く感じられた舞台でした。

ワキはとのけんと則久英志で、実は私はいつも心の中で「そくひさひでし」と呼んでいるので、彼の呼び名はとりあえず「そくしー(暫定)」としよう。で、とのけんとそくしー(暫定)の男二人旅で、なんだか妙に音楽性の高い僧侶コンビです。それに、とのけんの姿は『すねいお僧』らしく(笑)堂々として足も綺麗。

「鵜飼」や「鵺」のワキとアイのやり取りは、ちょっとヒネリがあって面白い。一夜の宿をあっさり断られ(凜太郎に)、お化けが出るらしい御堂に泊まることになるのですが・・。

ちなみに、今回の「鵜飼」は小鼓が、そこまでキンチョーしなくてもいいだろうに。。というほど緊張して打っていて、ちょっと可笑しかった。もちろん、銘々が銘々の境涯で、精一杯やるというのがお能の舞台のようなのですが。

そこに怪しげな老人が、松明を持ち舟に乗ってやってくる・・。老人が声を出すと、松明を持った右手がわなわなと震え、なんだかリアリティ抜群です?!きっと、力いっぱい声を出してるからなんだなぁと思う。

ワキに殺生を生業とするのはやめてはどうか。と言われても、長年これで生きてきたので、もう今更やめられないのです・・と。

このあたりでそくしー(暫定)が、あれ、この老人と以前にも・・と、ふと気づき、実はその鵜飼の老人は、もう死んでいて・・と衝撃の告白が続くのですが・・、そこの怖さよりも、その老人の密漁は見つかっていて、集団心理の勢いで殺されてしまった・・というほうが今は怖いかも。。「人々ばつと寄り 一殺多生の理に任せ 彼を殺せと言ひあへり」。手を合わせて許しを乞うたけれども、水に沈められてしまった・・とのこと。

とのけんが、懺悔の代わりに鵜を使っている様子を見せなさいと言うと、シテは急にイキイキとして、一度湿した松明を再び振り立て、びしっと扇を代わりにして、鵜を使う様子がカッコいい。狩猟本能とでもいうか、漁の面白さにこの時は罪も報いを忘れていましたと、かなり率直な告白です。(あれ、でも橋掛かりってそんなに使ってたかなぁ?)
三卑賤の能を観ていると、特に「鵜飼」ではそうですが、責めるほうも責められるほうも罪深い・・というのが、能の深いところでしょうか。

でもやがて、その松明も捨て、シテは再び闇の中へと消えて行きます・・。この世が名残惜しいと、両手で顔を覆うようにして涙を流す様子が、本当に寂しげというか、哀れを誘う様子で胸に刺さりました。

そして「空之働」の小書がついているので、アイ狂言がなく、後シテは早装束での登場です。

この日はお笛が二番とも素晴らしかったですが、いわゆる「早笛」の囃子で、弘之がそりゃもう大爆走でスゴかったです(笑)。
半幕で幕が上がり、準備OK!のサインも出ます・・!

勢いよく出てきたのは「地獄の鬼」で、もちろんシテは四郎なのですが、全くの別人格としてやってきます。声量は少し寂しかったですが、鋭い所作、小ベシミの強い眼差しと、あの引き結んだ口元・・。しかしどこか、人間的な印象があったのも否めません。まるでこの鬼自身も、地獄を彷徨っているかのように観えました。

なんて言うのですかね、このオニもまた絶対的な存在というよりも、森羅万象の中で獄卒という役目を果たしているのだ・・と思えたことでした。闇夜を喜んでいた鵜飼の老人の前にも、ようやく真如の月が現れます・・。

おしまい!




 
posted by kuriko | 00:48 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
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