平成26年度第5回観世会能楽講座 その1
2014.10.03 Friday
講師 観世清河寿
松岡心平
ゲスト 高桑いづみ
※2014年10月1日(木) 観世能楽堂にて。
※文責:クリコ。
というわけで、観世会の能楽講座に行ってきました〜!
今回のテーマは「井筒」、そしてゲストは高桑いづみです!
さすがに現役の能楽研究者がゲストだと、話が演能に関して具体的かつ実際的、キヨも心なしか話しやすそうでした(笑)。ちなみに、いづみん(←誰?)には、四季祝言の小謡を復曲した際にも協力してもらったそうです。
で、まずはキヨの御挨拶から。
舞台の上には、いつもの書見台と鬘桶のセットと、「井筒」の井戸とススキの作り物があらかじめ出されていました。
キヨの話だと、これはいつもお願いしている「山本フラワー」の御主人が、わざわざ山まで行って取ってきてくれたもので、冷凍して(!)運んできたものなんだとか。それでも穂先がすぐに開いてくるので、形よく保つのが大変なんです。とのこと。
7月26日の大三島での薪能でも「井筒」だったそうなのですが、とにかく大変な暑さで、ふと楽屋の温度計が目に入ってしまったので、内弟子に「いま何度?」と聞いたら、39度?!だったとか・・・!
おワキは宝生閑先生で、閑先生も「必死で座るよ」とおっしゃってました・・と。気温の暑さに加えて、篝火の熱風で(笑)とにかく大変だったそうです。お能の公演は季節に準じてやるのが基本だけれど、しかし春の能は意外に少なく、秋の能がやはり多いんですよね、とか。
また今年の夏は、ワーグナーの曾孫にご招待されたとかで、バイロイト音楽祭にも行ってきたそうです。実はキヨは、「隠れワグネリアンなんです♪」とのこと!(←そ〜なんだ!メモメモ。byクリコ)
本当は「ニーベルングの指環」が観たかったけど(←キヨはここで、ワグネリアンらしくちょっと気取って「”リング”が本当は観たかったんですけど・・」と言ってました☆)、日程の都合で「さまよえるオランダ人」を鑑賞してきたそうで、お客様の自主的なマナーの良さに感銘を受けたんだとか。でも音楽はよかったけれど、近年のドイツ流の『斬新で、前衛的な』演出には、ちょっと「?」だったみたいです。
(←船長はサラリーマン姿で、船員はゾンビ(?)姿で。。だったのですって。)
さて、この後はシンペーといづみんの対談で、シンペーによるといづみんは、横道萬里雄先生の学問を最もよく受け継いでいる人・・とのこと。
まず最初に、いづみんから「井筒」についての話がちょっとありました。
世阿弥の能というと、まず「幽玄」という言葉が想起されるが、観阿弥作品の改作も多く、実は世阿弥作(完全オリジナル)の女性の能はそれほど多くない。最初からオリジナルで作ったのは、「井筒」「檜垣」ぐらいと思われる。しかも「井筒」について世阿弥がコメントしているのは「申楽談儀」になってからで、「砧」と並んで晩年の作ではないだろうか。
「申楽談儀」には、この時期の世阿弥は「ちと年寄りしくある面」を愛用していたとあり、「井筒」で使用した面もそうだったとも考えられる。「井筒」のシテのずっと待っていた長い時間は、若い女面、小面では表現できないのではないだろうか。
現在の「深井」では、装束は紅無になるので(実際の演能は)難しいと思うが、世阿弥の想定はある程度年をとった女性だったと思う。若い女性で登場するのは、「これ」というものが無い(笑)。
実際、観世流では江戸時代の始めまで「若女」の面は無く、「井筒」も「深井」でやって良いということになっている。若い頃の恋をしみじみと「なつかしや」と語る中年女性・・と「井筒」のシテを考えると、また分かってくるものがあるのではないだろうか、とのこと。
シンペーの話は、自分もこれは面白かったという「井筒」にあまり出会えていない。名作とは思うが、演者にとっては難しいのではないだろうか。能楽の歴史の中で、女性の面は一番遅く成立してきており、赤鶴の「小ベシミ」であれば世阿弥の時代から掛けていたことが分かるが、若く美しい女性の面はいつからあったのか。
観世寿夫は、美しい女面から幽玄の能が成立したと自論を持っていて、自分も若い頃これに「乗っかって」話をしていたら、女面の成立について指摘をされて弱ったことがある・・と。
いづみんによると、古い能では、女性の深い内面を表わすものが少なく、女性と分かればよい。程度だったのかもしれない。「井筒」の女はずっと待っていたが、「砧」の女は待てなかった。「松風」のシテは、ちょっと田舎の女の子で(笑)ただ「恋しい、恋しい、大好き大好き」と言っていればよく、表現したいレベルが違う(笑)。
「小面」ではまだ恋愛当事者で、「なつかしい」という感覚は、「ちと年寄ししくある」ものだと思う。それにシテはクセで自分は紀有常の娘だと2回言っている。世阿弥はすごく言葉を選ぶ人だ。大人しいけれど自己主張したい女性、若くはない女性像がそこにあるのでは。とのこと。
これに対してシンペーは「松風派」だそうで(笑)、好きだ好きだと言っている女性の内面と、待っている女性の内面は確かに違うかも。「井筒」は伊勢物語の二十三段(「筒井筒」が原典になっていて、幼馴染の二人が結婚し、やがて業平が浮気をするようになっても健気に見送る美談が出てくるが、「大和物語」では同じ話でも、見送った後に「金椀」の水が沸騰したとの描写がある。「物着」の演出で形見の装束を着て出てくるのも、脱皮して自己主張している感じがする。
たしかに「なつかしい」という感情は、過去のものとして愛おしむもので、「松風」は現在進行形として恋慕の感情を松(行平)にぶつけている。他の能とは違う新しい感覚があるのかも、だとか。
いづみんによると「物着」の演出は、業平の霊がのりうつる「移舞」としての要素が強く、能楽師たちの間には、こちらが本来だという言い伝えがある。また「物着」では登場の「一声」が特殊で、「越」は打たず(現在では省略されることもあるが、通常は打つ)、霊を呼び出すとされる「ヒシギ」を吹かない笛の流儀もある。もともと、「一声」ではなかったのではないか。そうすると、シテの面も前後で変えなかった、ということになる。らしい。
シンペーは、「井筒」でシテが覗き込む井戸の水の深さが、過去の深さ、時間を表わしているのかもしれないと触れて、バシュラールの「水と夢」の一節を紹介して「我々の魂の過去は深い水なのである」、世阿弥は600年前にすでにこれを表現している。と。
いづみんの話では、井戸の作り物は、懐かしい思い出とともに、業平のお墓としても登場する。「井筒」の初同では、「一叢ず↑すき」と高い音で強調されて息の具合を工夫して、シテが薄をすーっと見て、舞台を一周する。「まことなるかな いにしへの」で、終りから二句目に小鼓が「ヲドル手」を打つ。味方健説では、この終わりから二句目というのは、特に大事な言葉を言っている。とされる。(←ただし現在では、重すぎて打たないこともあるとのこと。)
また「草 茫々として」も、地拍子(リズム)が工夫されており、大事なところで世阿弥は地拍子を工夫する。これはもう他の人にはできない境地だと思う。
井戸(実は井桁)の作り物をわざわざ先に出してもらったのは、シンペーのリクエストだそうで、『井筒』の作り物は能の作り物の中でもピカイチと思う。前場では、この『井筒』は業平のお墓であり、『一叢薄』が、井筒の女を招くように揺れて、シテと業平の心の通い合いを表現している。多様な機能があって、かつシンプルで素晴らしい、とのこと。
在原寺に業平の墓があるという伝承は、鎌倉時代からあり、柿本人麻呂の墓と対になっているとされ、院政期には名だたる文人たちが参詣に訪れていた。人麻呂、業平は「歌聖」として扱われ廃墟どころか、江戸時代までも大きな寺院として存続していた。しかし世阿弥の「井筒」では、廃墟であるかのような言い方をしている。過去のものとして、廃墟であるがゆえに、時間を操作できる、過去の記憶が立ち上ってくる装置として描かれている。
『井筒』の作り物を考え出したのは、実は誰なのか分からないが、「見ればなつかしや」とあるからには、世阿弥は井桁のある井戸をイメージしていたと思う。実は、幼い二人が互いに水鏡で影を見合ったというのは、世阿弥が付け加えたエピソードで、伊勢物語にはない。「玉井」では彦火々出見尊が桂の木に隠れていると、その姿が水鏡に映り、豊玉姫に見つけられる。神と水辺の巫女とが結婚する神話だが、そのイメージが「井筒」にも残っている。水の女、水鏡、古代性と近代性の両方が「井筒」にはある。と・・・
その2へとつづく。