1.能『江口』を読む
−歌人西行の求法の旅と諸国一見の僧−
宮本圭造
2.実技
連吟
雨月 ワキノ出ヨリ下歌迄
シテ 観世銕之丞
ツレ 鵜澤久
ワキ 浅見慈一
仕舞
西行桜 クセ
観世銕之丞 (代演)
※2015年9月25日(金) 銕仙会能楽研修所にて。
※以下の内容は、クリコのうろ覚えに基づくものであります。
と、いうわけで、ついに銕仙会の講座にも潜入してきましたぁ〜!!
いや潜入っていうか・・、フツウに聞いてたわけですが・・。
柴田稔が司会をやっていて、わりと淡々と(笑)講座が始まりました。
舞台の上に小さな毛氈を敷いて、その上に講師の宮本圭造が椅子に腰かけて話します。センセーは、なんだかちょっと緊張気味のようでしたが、お話はとっても面白かったです。
今回は第一回目ということで、まず「江口」の物語全体とその成り立ちについてのお話。
さて、「江口」というと、実は江戸時代?ぐらいまでは、一休禅師が作った曲だと一般に信じられていたそうな。そう、あの頓智の「一休さん」です。
「江口」は観た目は華やかですが、詞章はわりと難解で仏教の教義に関わる部分が数多く入っており、作者はきっとお坊さんだろう、ということで、「江口」と「山姥」は一休さんの作だとされていたそうです。
江戸時代に出版(創作)された「一休ばなし」に、そう信じられる一因となった話があるとのこと。「一休ばなし」は寛文八年出版だそうなので、1668年。わりと古いですね。
その話というのは、
昔むかし、ある奥さんが自分はこの年まで仏法を学ぶこともなく、女は罪深く、成仏できないというから、一休禅師に引導してもらいたいと頼んで亡くなった。
家族が泣く泣く一休さんに頼みに行くと、その年まで仏法を知らないでいたのでは難しいと言いながら、一休さんは遺体を鴨川に持ってこさせた。そしてなんと、遺体の首に縄をかけ、「江口」の一節を謡いながら、鴨川にざぶ。と投げ捨てさっさと帰ってしまった。家族は驚き、お経でもなく「江口」の謡では浮かばれないと、遺体を引き揚げ、別のお坊さんに引導を渡してもらった。
ところがこの奥さんが家族の夢枕に立ち、「せっかく一休禅師様に引導して頂いて成仏できたのに、別のお坊さんの引導のせいで、引き戻されてしまった。また一休禅師様に頼んでくれなければ、あなたたちを憑り殺して、一緒に三途の川を渡りましょう・・」と訴えた。家族はまた驚いて、一休さんに再び頼みにいき、一休さんは当初「他の人に頼むからだ」と捨て置いたが、家族の者が嘆くので、その遺体を掘り返させ、一首口ずさみながら鴨川に再び投げ捨てた。すると家族の夢の中で、その奥さんは(「江口」と同じく)白雲に乗って、西の空へ旅立って行った、そうな・・・。
と、いうものだそうです。無論、この話は作り話なのだそうですが、金春家の古文書に、この元ネタとなった史実が記されているとのこと。
「一休題頌」と呼ばれているもので、金春禅竹の奥さん、つまり世阿弥の娘が亡くなった際に、一休が禅竹に漢詩を贈り、この奥方にも「江口」の一節を踏まえた引導の歌を捧げている・・そうです。
圭造によると、一休は「江口」が世阿弥の作だと知っており(しかも自筆本を世阿弥が禅竹に贈っている)、そのことを踏まえて作ったのではないか、とのことでした。
さて、近代では「江口」の作者は、世阿弥が著書「五音」の中で「江口遊女 亡父曲 ソレ十二因縁ノ」と記していたために、長く観阿弥作と信じられていたのだとか。しかし世阿弥の自筆の原稿が発見されたことから、現在では世阿弥作と考えるのが有力、なのだそうです。
世阿弥が禅竹に贈った自筆本に、自ら節付した部分とそうでない部分があるそうで、このことから、観阿弥がクリ・サシ・クセの部分を「曲舞」として作り、世阿弥がそのクセを含んだ「能」として仕上げた。と、考えられているそうです。
世阿弥自筆本と現行版の謡本では微妙に内容も異なっているそうですが、展開としてはほぼ同じで、他の自筆本と比べると、「違いは少ないほう」なんだとか。
「心に留めずは 憂き世もあらじ」(←「江口」の一節)というのは世阿弥の考えた言葉だと思われるが、仏教のキャッチフレーズと言っていいほど、仏教の本質を突いた言葉だと思う(by圭造)。
その昔、お釈迦様は何故人間は苦しむのかと考えた。この世に永遠のものなど無いのに、永遠と勘違いして(執着して)人は苦しむ。その執着を無くせば苦しみも無い・・と、考えるのが仏教の根本。
「江口」は難解な仏教のイメージを和らげつつ、壮大な宇宙を感じさせる世阿弥が得意とする展開の曲・・なのだそうです。
その「江口」の典拠となったエピソードですが、これは幾つかあるらしい。まず「新古今和歌集」に収録されている西行法師の歌と『遊女 妙』の返歌。
世の中をいとふまでこそかたからめかりの宿りを惜しむきみかな
世をいとふ人とし聞けばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ
西行法師は歌は沢山作ったが、自分の人生は語らない人だった。元は北面の武士(エリート)だったのに、それを捨てて出家した理由もはっきりしていない。だからこそ人々の想像をかき立て、西行が亡くなって数十年のうちに、さまざまな西行の「物語」が創られた。
もう一つの典拠に、この有名な『西行物語』として「撰集抄」があり、この中で西行は江口で雨宿りをしようとして、ある遊女に出会う。前述の有名な歌を取りかわし、西行に一夜の宿を貸した遊女は、これを機縁に出家して尼になったそうな・・。
「江口」では、西行自身は登場せず、ワキの僧がその追体験をする構成となっている。しかし西行法師は能にしばしば登場し、歌枕の地まで旅をして歌を詠んでいる姿が、ワキ僧とオーバーラップされているのではないか。西行は、ワキ僧のモデルと言えるかもしれない。世阿弥がどうやって複式夢幻能を編み出したのかよく分かっていないが、西行のこともヒントになっていたかもしれない・・とのこと。
そして西行の物語が謡曲の世界に取り込まれ、西行のことを尊敬していた松尾芭蕉は、旅の途上でしばしば自分自身を西行と、能のワキ僧に重ね合わせている。こうして日本文学の系譜が繋がって行く・・。by宮本圭造。
さらに、「江口」の典拠として有名なものに、同じく「撰集抄」に性空上人が生身の普賢菩薩を観た話がある。性空上人が普賢菩薩を拝みたいと祈念していたところ、「室の遊女の長を拝め」とのお告げがあり、僧衣のまま行くのは差し障りがあるので、わざわざ変装して(笑)、お供を連れて室まで出かけた。そして遊女の長の舞を見ている時に、心を鎮めて目を閉じたところ、白象に乗った普賢菩薩の姿が観え、そして目を開けると遊女の長が居た・・。喜んだ上人がこの宿を辞した後、その遊女の長はにわかに身罷ったとか・・・。
と、このようなお話があり、その後は世阿弥直筆本のほうをテキストに、「江口」の詞章の解説。
かつて、女性は成仏できないと言われていた仏教の世界で、何故に遊女がそのまま普賢菩薩となり得るのか・・、は、最終回のお楽しみだそうです。
で、つづいて、オマケの実演です!
まずは「雨月」の連吟から。この曲も西行法師がワキとして登場し、とある民家に一夜の宿を求めて・・というお話です。そういえば、「雨月」もあんまり出ませんね??
というわけで、シテ・てっつん、ツレ・鵜澤久、ワキ・浅見慈一という顔ぶれだったのですが・・。
いや〜、これが、スゴかったね。そればっかし言ってるけど、でも本当にスゴかった。
特に、銕仙会の見所で超間近に聴いたてっつんは、本当に素晴らしかったです・・・。圧倒的な声量や息の深さもさることながら、今やそこからある種の芳醇さ、複雑に織りなされる神秘的な生命感すら感じさせます。。あのフクフクのお腹に、何か秘密が隠されているのかしら・・。(←余計なお世話。)
キヨが大吟醸清酒タイプなら、てっつんは赤の葡萄酒タイプだなぁ・・・。GSはさしずめブランデーかしら。。。って、お酒飲まないので知りませんが・・・(適当です)。
続いて「西行桜」の仕舞。ホントはしみかんが舞う予定だったそうですが、てっつんが舞っていました。
こちらもひじょ〜うにに素晴らしかったです。眼福と言ってよいでありましょう。てっつんがハッキリと、本番の舞台での「西行桜」をイメージしているのが感じられました。(たぶん・・。)白足袋が踏み出されるごとに、全て特別な、清新な新たな一歩だという気がする・・。
ああ、こうやって青山の舞台で、栄夫も観たな。閑も観た。と、なんだか思い出したことでした。
そして最後に、圭造に質疑応答。「江口」の内容についての、直接的な質問は出なかったですが、
Q.宮本先生はなぜお能を好きになったんですか?
A.「わぁ不思議。なんでこんなものが存在するのだろう?」と思ったのがきっかけです。はじめから大好き!だったわけではありません。私の祖父は半(?)プロの謡の先生をやっていました。そんなところも縁があったのかも。
Q.「江口」という土地はどんな場所だったのですか?
A.風光明媚というイメージはなかったと思う。かつては海上交通の要衝だったが、世阿弥の頃は既にすたれていたと思います。
Q.観阿弥はクセ舞として「江口」を作ったとのことですが、観阿弥の頃の「曲舞」とはどのようなものだったのですか?
A.クセ舞として独立した芸能でした。現在の仕舞のように、舞だけを舞っていたと思われます。
みたいな感じでした〜。
イヤー、この講座はなかなかイイ!イイですよ。なんたって場所がいい(←そこ?)。
お話も面白いし、行き帰りに表参道で、私ってばオサレピープル・・・(勘違い)ごっこができるし、おトクな感じです。
次回は六の字(←藤田六郎兵衛)がゲストで、てっつん、圭造との鼎談と、お笛の実演だそうで〜す!
第2回へとつづく!