能楽鑑賞などなどの記録。  
霊峰

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今日は山種美術館で横山大観展。
http://www.yamatane-museum.jp/exh/2018/taikan.html

 

恒例のカフェでの御菓子は、「雲の海」。

雲に包まれた気高い富士の姿を、きんとんで表したそうです。

 

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ふ、ふ〜ん・・。

 

一昨年も、同じ大観の「心神」をモチーフにした御菓子にしてました。
http://kuriko.jugem.cc/?day=20160113

 

 

ちなみに、萬斎さまの今年のFormには行っておりませんです。

アクセスして下さってる皆様、すみませぬね・・。

 

 

 

 

posted by kuriko | 00:21 | 番外 | comments(0) | trackbacks(0) |
おくればせ

 

おくればせながら、新年あけましておめでとうございます。

 

本年もよろしくお願い申し上げます。

 

今年もマイペースにお能や狂言を楽しんでいければと、思っています。

更新頻度はあまり上がらないカモ、です。。

 

 

ちなみに、うちの母の場合、日曜美術館で放映された国宝展などの映像を、何故か携帯のカメラで撮ってます(笑)。可愛いというか・・。

 

「図録買って送ろうか?」と言ったら、それは要らない、とのこと。出来る限り(すべてにおいて)軽い状態で見たいそうで、逆にデジタルネイティブという感じがする・・(笑)。

 

 

 

 

posted by kuriko | 00:21 | 番外 | comments(0) | trackbacks(0) |
国立能楽堂特別企画公演 鮎

 

小舞
鵜飼  野村萬斎

 

狂言
宗八
シテ  野村万作
アド  竹山悠樹
    岡聡史

 

一調一管
瀧流延年之舞
小鼓  大倉源次郎
笛    藤田六郎兵衛

 

新作狂言

小吉  野村萬斎
才助  石田幸雄
鮎    深田博治
     月崎晴夫
          高野和憲
          内藤連
          中村修一
          飯田豪


小鼓  大倉源次郎
笛    藤田六郎兵衛

 

作   池澤夏樹
演出・補綴  野村萬斎


※2017年12月22日(金) 国立能楽堂にて。夜の部。

 

 

というわけで、萬斎さまの新作狂言「鮎」を観てきました〜!
これがなかなか、面白くて素晴らしい舞台だったのでした!

 

池澤夏樹というと、彼の作家活動の初期・・、というか人気作家としてバリバリ書いてらした時期のものを、何冊か好んで読んだ記憶がある。「マシアス・ギリの失脚」ぐらいまでだったかな。

 

その後、ちょっと頭でっかちというか(笑)、物語よりも評論優先かのような作風になんとなく興味を失ってしまった・・のかもしれない(以前は小説のほうが好きで、いまでは評論系のほうがどちらかと言うと好みなので、趣味って変わるものである)。

この「鮎」の原作も、読んでいたはず・・・?なのだけど、忘れてしまっていたのかも。それに池澤夏樹が、六世野村万蔵のファンだったことも知らなかった。この日も関係者席に観にいらしていたが、あまりにイメージ通りに年を取っておられて、なんだか感心してしまった。

 

が、しかし。狂言化された「鮎」は大変に面白かった。パンフレットの解説にもあったように、能「邯鄲」と、芥川龍之介の「杜子春」を足して2で割ったような短い物語だったのだけど、狂言らしい軽みとユーモアが、池澤の作風の硬さと批評性を心地よいスパイスとして、あるいは核として程よく料理されていた・・・なんて書くと、言葉がチャラすぎますわね。、

 

「邯鄲」は粟のご飯が炊けるまでの一炊の夢だけど、こちらは串焼きの鮎が焼けるまでの一鮎の夢?といったところ。萬斎さまの演出家としての腕が冴えに冴え渡って、初演とは思えない完成度の高さで、ここは展開がモタついてるな・・というところが、全く無い。

 

それぞれが一尾何役もこなす「鮎たち」と、語り部、シンプルな舞台でのミニマムな仕掛けと、もうbefore breakfastという感じで(←そんな英語はありません)、アピースオブケークでしょうか、国立能楽堂なのに「忖度」だとか、反戦?だとかを匂わせる心意気(笑)。というか、このタイミングでこうした作品を出してくる、萬斎さまの時代を視るバランス感覚なのでしょうね(笑)。もちろん、そうした風刺の精神は、狂言のDNAの1つでもあるわけですが。

 

舞台作りは狂言というより、演劇に狂言的な要素を数多く取り入れた「敦」的な展開。片方の主役・才助は、登場の際に、名前と在所をきちんと名乗り、舞台が清流の傍らであることを告げる。そこに、釣られる側の鮎たちも登場するのだけど、串刺しにされて塩焼きにされることを、むしろ喜んでいるところが可笑しい。

 

そして村長の息子とケンカをした・・・という小吉(萬斎さま)が突然現れ、才助に助けられて、やがて都会に出て出世していったはずが・・という物語。

 

小吉にとって恩義があるはずの才助とその甥が、小吉のもとへとやってきて、この甥が徴兵されることになったが殺生ができない性質なので、後方へと配置されるようにしてくれないか・・と、いわば便宜を図ってほしいと才助が頼んでくる。それを小吉が断ると、今度は質素でよいので、なにか食べさせてくれないか・・と才助がさらに頼み、小吉は俄然ブチ切れ、すると・・・という内容。

 

栄耀栄華(と言っても大きな宿屋の主人になる程度なのだけど)の夢が破れたあとも、主人公の小吉は、「邯鄲」のシテのように世の無常を悟るでもなく、狂言のよくあるトメのように「くっさめ!」とくっさめ留で、ぱっと日常に戻るでもなく、「夢をみたい!」と叫んで終わる。

 

ここはちょっと、能的でも狂言的でもない驚きのエンディングで、「邯鄲」では、宿屋の女主人が扇で叩く音で終わるけど、小吉は、自ら夢を破ったのかもしれない。それでも結局、悟らぬところがいいのだけれど。

 

池澤夏樹はこの物語の構想を南米のとある民話から得た、としているけれど、こうした物語の類型は、人類共通ということなのかしら・・。小吉が夢見ている間も、橋掛かりで、ただ釣り糸を垂らしている才助・・・。

 

以下、蛇足です。

 

今回の公演は、なかなかに現代的な要素が数多くあり、そこも非常に興味深く思ったことでした。

 

萬斎さまはこの作品を問題提起の1つとすることも意図していたらしい(と、パンフレットに書いてあった)。そして作者には「余白を多く」とリクエストしていたとのこと。それはもちろん、狂言として舞台化するにあたっての自由さのことなのだけど、さらに、この曲のエンディングについては、いま現在の日本を思うに、「小吉のどこが悪いのか分からない」「小吉の言ったことも正論」とか言う人も、少なからずいそうだな・・、という意味でも余白があった、と思う。

 

おそらくは、この原作が最初に書かれた20年ほど前であれば、ほとんどの人が、その終末に納得して、そうだそうだ、すっかり心が醜くなった小吉が悪いとなっていたと思うのだけど(たぶん)、その状況はあまりにも変わってしまった。

(←舞台上でも小吉は夢から醒めただけで、別に訓話的に懲らしめられたわけはない。)

 

観る人の感性よりも、品性や価値観を、笑いながらも「あなたはどう思いますか?」「あなたはどれくらい『小吉的』になっていますか?」と問いかける・・ことに、私は成功していたと思うけど、少し笑いへの比重が強すぎたかもしれない。

 

それにあえて言うなら、鮎たちを人間界との対比(?)として登場させるなら、彼らは無私であり無欲であるという表現も多少あったけれど、語り部的な役割の印象が強くて、かなり人間寄りになっていたので、舞台上でももう少し人間に対して対照的に、存在に深みを持たせてもよかったかなぁ、と思う。でもそうすると、お話の趣旨がちょっと変わっちゃうかな?

 

能・狂言は興業の期間も短いのが普通だし、特に能は作劇も特殊なので、なかなか今をときめく人気劇作家に書いてもらった・・というわけにはいかないのだけど、こういう観る人の間口を広げるスペシャル企画もいいよね、と思わせた公演だったのでした。(←と、忖度してみるw。)

 

それにしても、最後に萬斎さまの舞台挨拶がわざわざあったのには驚いた。お話が聴けたのは嬉しかったけれど、これといった話でもなく(笑)、な〜んでだろう・・という気もしたケド・・(笑)。

 

というわけで、まだちょっと、萬斎さまに冷たい私なのでした(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

posted by kuriko | 22:54 | 能・狂言 | comments(0) | trackbacks(0) |
なんというか

 

 

 

https://www.nikkansports.com/sports/news/201712200000675.html

 

既定路線だし、別にいいと思うのだけど、「オリンピックは日本のホニャララをアピールする絶好のチャンス!」みたいな考え方は、もうやめたほうがいいと思う。いろんな意味で、心配です・・(萬斎さまが)。

 

 

 

 

 

 

 

posted by kuriko | 01:10 | 番外 | comments(0) | trackbacks(0) |
片山幽雪聞書 「無辺光」  (聞き手 大谷節子 宮辻政夫)

・・・すぐに稽古にかかり、後半の半年は毎日『関寺』を舞っていました。そうしないとでけへんかったんですよ、鈍臭いから。当日の朝も稽古しました。その三年後、平成十七年(二〇〇五)年三月二十六日、もう一回、京都観世会館で「『関寺』を観る会」でやらせていただいた。このときには、慶次郎が「もう当日の稽古はやめとけよ。くたびれるだけやから」って。でもやっぱり、それはないんですね。自宅の稽古場で最初から最後まで稽古してから行ったんです。

 

(本文より)


2017年の10月に出版された本です。

 

幽雪は2015年の始めに亡くなられたが、聞き手たちとの対談は2013年、14年の間に行われていたらしい。

 

幽雪ご自身のこれまでを振り返ってのことは勿論、片山九郎右衛門家の歴史のこと、お父様のこと、お母様のこと、三老女完演に際しての非常に具体的な舞台づくりのお話など、非常に興味深い内容でした。

 

読み終えて思ったのは、当然といえば当然のことながら、やっぱり鍛錬に鍛錬を重ねていないと、一流にはなれないんだな、ということだった(笑)。そして非常に素直な、分からないことは、なんでも訊いちゃうし、学んでいこうとする御人柄。

 

特に、聞き手の人も語っていたけれど、老女ものでの工夫に関して、ここまで詳細に語られているのは珍しいのではあるまいか。彼の作った型付が、いつの間にかみんなに知られていたり・・。

 

彼のような人がいたおかげで、比較的近代化している(笑)観世流では、秘曲、大曲に大勢が取り組める素地ができているのでは、と思う。

(←まぁ言っておきたいことも、色々あったみたいだけど・・・笑。)

 

男子は能楽、女子は京舞井上流と、聞くだにしんどそうなお家だけど、それがしんどいと思うようでは務まらないということなのかな・・。

 

 

 

posted by kuriko | 00:45 | 読書(能・狂言) | comments(0) | trackbacks(0) |
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