能楽鑑賞などなどの記録。  
時季

 

今日見た時にはもう萎れてしまっていたけど、葉牡丹って、こんな花が咲くんだ。。。

意外性というか。。。

 

 

 

 

 

 

 

posted by kuriko | 22:19 | 番外 | comments(0) | trackbacks(0) |
村上春樹 「騎士団長殺し」

 

たしかにそれほど上等な比喩ではない。だいいち暗喩ですらなかった。
「それは暗喩じゃなくて、明喩だよ」と私は指摘した。
「すみません。言い直します」と顔ながは額に汗を浮かべなから言った。「彼はあたかも、通勤の人混みの中でオレンジ色のとんがり帽子をかぶるように生きた」
「それじゃ文章の意味が通じない。それにまだきちんとした暗喩になっていない。おまえがメタファーだなんて、どうも信用できないな。殺すしかない」
顔ながの唇は恐怖のためにぶるぶると震えていた。

 

(本文より)


2017年に出版された本です。

 

・・・言うまでもなく・・。

 

全体として、村上版「インサイド・ヘッド」(ピクサーのアニメ映画)みたいというか、「ハルキ、創作のひみつ」みたいな内容で、メタフィクション的と言うとカッコいいけど(?)、あまり面白くなかったな〜。。というのが、正直な感想です。

 

主人公は例によって、パートナーとの理不尽な別れだとかの定番の「消失」が原因となって、ぽっかりと現実に空いた穴に落っこちる。そして、ほとんど無意識下と言っていい世界で冒険活劇を繰り広げ、地上へと生還する。

 

主人公にはこれまで以上に、著者自身の面影があったように思われるし、画家という職業にも、特に商業的な肖像画を専門としていたことにも、ある種の自虐というか、自身の作風に対するエクスキューズも感じさせた。

 

(ただ、売れない画家という設定のわりに、自身の能力と腕前に対する自負心は、ミョ〜に高い・・。そういうものだろうけど。そして著者の実際の暮らしぶりは、主人公よりもむしろ、お金持ちだけれどメイドは使わない「免色さん」に近いんじゃないだろうか。白亜の豪邸に住み、英国車を4台持っている・・)

 

確かにピカソのようなタイプでもない限り、一度完成した画風を極端に変える・・・という画家は少ない、と思う。そして多くの絵画作品では、本来は目に見えない「イデア」がメタファーとして仮の姿形をとって顕れる。

 

作中に「父親」というものが、あるいは血縁そのものが重要なファクターになっているというのも、「海辺のカフカ」のような例もあるけれど、村上作品には珍しいのカモしれない。

 

フロイト的な解釈を、著者は作中で布石を打って否定しているけれど、偉大な父親像や、我が子を目の前にして狼狽える父親、息子に呪いをかける父親、邪悪な父親・・・が主人公の中で顕れては消えていく。もっとも、エディプス的な要素も出てくるけれど、それはやはり要素の一つでしかない。

 

印象的なのは、主人公と疑似的な親子関係ともなる、親友の父親で偉大な日本画家という登場人物で(「雨田具彦」という)、主人公やその友人が30代半ばで、その父親が92歳という設定はいささか不自然だけれど、ハルキが一度書いておきたいと語っていた自身の父親像、なのだろうか。

 

そして避けては通れない、その世代の人物たちが背負っている負の遺産とでもいうべき過去が、この物語のメタファー的な原動力となっている。彼らは最後の最期まで、本当は何があったのかを語ろうとはしない。(それは個人が時代によって、すり潰されていくことの警告でもある。)

 

対して、現実あるいは明喩的には、「免色さん」の我が子(かもしれない)に対する執着が、空洞となった主人公を車輪にして物語を展開していく。

 

そういうところは、変わらず上手いな〜とも思うのだけど、クライマックスというべきところで、主人公の活劇の『比喩』が唐突に抽象画調となってしまい、あまりに前衛で(笑)、そこはちょっと残念だった(笑)。

 

過去の作品群は、無意識は無意識としてまだ機能していたように思うのだけど、もうそんなの面倒くさくなっちゃったのかしら・・?

 

これまでの自分の創作スタイルというか、本人も言うところの小説生産システムの『トリセツ』的な内容でもあり、自分自身の中に深い井戸を掘り、そこを下っていくと、物語の水脈にたどりつくのだ・・と。そういう意味では、やっぱり面白いことを書く人ではる。

 

なんとなく、雨田具彦の人物像ではなく、作風だけのイメージとしては、モデルは安田靫彦かなと思うのだけど、どうだろう??

 

 

 

posted by kuriko | 00:55 | 番外 | comments(0) | trackbacks(0) |
Tehepero

 

先日、なんだか思わせぶりなことを書いてしまいましたが、実は当分、どこの能楽堂にも行かない予定です。

 

いや、行こうかな・・・?

 

こちらのblogも、チョコチョコ更新していくつもり・・☆

 

てへぺろ的な?

 

 

 

 

 

posted by kuriko | 00:00 | 番外 | comments(0) | trackbacks(0) |
ミュシャ展

DSCN3599.JPG

 

ムハは、いかなる国の未来も、その国が歩んできた過去や歴史を知ることにかかっていることを確信していた。

 

(解説より)


もちろん、修正主義でなく、正しく客観的にね・・。

 

今日は六本木まで、アルフォンス・ミュシャ展を観に行ってきました〜。(http://www.mucha2017.jp/)
とっても素晴らしかったです!

 

「スラブ叙事詩」について、書籍などでなんとなく見知る機会があり、いつか実物大で観てみたいものだわ・・・と思っていたので、今回それが叶って非常に嬉しかったです。

 

会場は結構な混雑ぶりで、私はただ『おお、すごい』と感心して観ていたのだけど、後ろにいた女子大生ふうのコたちは、「すごーいっ、なにこれ、すごーいっ」と、やたら驚いていました。

 

ミュシャ自身もきっと、こうした反応こそが嬉しいに違いない・・(たぶん)。「スラブ叙事詩」において、ここまでのサイズとその展示にこだわったのは、絵に込められた魂と歴史に、自身の経験としてできる限り直に触れてほしい・・と願っていたから・・だと思う。

 

20点に及ぶ「スラブ叙事詩」では、天上(精神)世界と地上(現実)世界が同時に、上下に描かれていることが多いそうですが、それはちょうど観る者たちの視点にもつながる。

 

スラブ民族にも原初的には多神教の神がおり、別の神を持つ異民族から侵入を受け、キリスト教を受容するとヴァチカン(カトリック)からの支配と対立し、政治文化的にも、西欧の大国からの影響を常に免れず・・。

 

神々は天上にあり、(時代的な制限もあるにせよ)民族の自由と独立を求めた宗教的、政治的な、そして英雄としての指導者の姿も常に、少し離れた高みにある。

 

チェコ語ふうに発音すると、ミュシャは『ムハ』となるけれど、既に『ミュシャ』が定着しているせいか、受ける印象が随分と違う・・。アール・ヌーヴォーの寵児としてのミュシャと、彼自身の理想とアイデンティティの根本を追求したムハと・・・。

 

私が無知だったダケだけど、1つの頭に4つの顔を持っている古代の神・スヴァントヴィートの如く、画家としても巨人と言える人だったのだな、と、その認識をさらに改めたことでした。

 

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(※撮影可コーナーでした。これはギリシャ正教側の「アトス山」です。)

 

 

posted by kuriko | 23:17 | 番外 | comments(2) | trackbacks(0) |
Scrap and...

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今日、人と話していて、***するのを取り止めにした、と言うべきところを、何故か間違えて「取り潰しにした」と言ってしまい、「そうか、東京の街には今頃、浪人どもがあふれているね」と返されて、めっちゃ笑ったことでした。

 

毎日いろんなことがあるけれど、はぁ〜。。毎日が善き哉。。。☆

 

新しい能楽堂のこと、当事者でない人たちはこれから色々言うだろうけど、別にいいと思う。。

 

むしろ、銀座みたいな場所に作れたっていうのが意外だった。
作ったっていうより、テナントとして入ったっていうほうが正確なんだろうけど。。

 

だって、いまの能楽にいったいどれだけの体力が残っているだろうか?って気もするし・・。

 

みんなオリンピック利権になんとか乗っかろうとガンバったり、忙しいアピールだけはしてるけど、近い将来もし興業だけで食べていくことになったら、公演の形態も特殊だし、逆に流儀だのなんだの、人が多すぎる気さえする。少しでも体力が残っているうちに、やれることはやっておいたほうがイイ、と思う。

 

神社(パワースポット)ブームとか、刀剣ブームとか、瞬間風速的なものは今後突然起こるかも、、とは思うけど・・・。

 

 

posted by kuriko | 22:24 | 能・狂言 | comments(2) | trackbacks(0) |
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